「黄金律」の言語生活
2016-09-28
「らりるれろ/らりら らろりれ/らりれるら/るるるる ろろろ/らりれ りろりら」「単純な音の流れ」「ほとんど意味を成さぬ不完全な結合」
「詩的情感」とは何か?
「意味」という点でいえば、何か”おかしくなった”のではないかと思われるかもしれない。冒頭のラ行音のみで繰り返される音の羅列。特に「文字」として「読もう」とすれば、聊かの「戸惑い」の中に誰しもが陥る可能性がある。「誰しも」と書いたが、もしかすると小学校1年生からせいぜい2年生あたりまでなら、まったくそんな「戸惑い」も見せずに、あっさりと面白がって「読む」可能性が高いだろう。学習段階がまだ「ひらがな」中心で、「音」から「文字」へと移行している段階の子どもたちの言語生活とは、「そのようなものだった」ということを大人は忘れがちである。岡井隆『詩の点滅』(角川書店2016)に引用された、那珂太郎の「短歌と俳句と自由詩に関する断章」(『詩のことば』小澤書店1983)所収)において、このような文字羅列を例にして、「五音と七音を基準とした短ー長ー短ー長ー長の拍節の構成は、それ自体が美的情緒を喚起するほとんど黄金律と言ってよく、」とされており、「という意味をなさぬ不完全な句の結合であっても、くりかえしこれを朗誦すればおのづからなにがしかの詩的情感が醸し出されるだらう。」という指摘が成されていることを知った。
岡井の評論で論じられる「自由詩(律)」と「定型」との関係性については、ここでは置いておくとして、この那珂の指摘は実に興味深い。「意味をなさぬ」と思い込まれている「句の結合」も、「朗誦」を繰り返せば、「詩的情感」が醸し出されると言っているからである。「大人」になればなるほど、僕たちは「ことば」を「意味」のみで考えてしまう偏向の中の”住民”となってしまう。だがしかし、最後には「音」で味わってみると「詩的感情が醸し出される」というのは、この一見意味不明な文字列以外にも該当することではないかと思うのである。視点を変えてみれば、僕たちの日常にある言語生活そのものが、多くは「五音」と「七音」に委託しているのではないかと思われて来るのだ。例えば小欄の本文を「まさに今」見返しても、「だがしかし」「まったくそんな」「されており」「おかしくなった」「詩的情感」などと抽出して羅列し、これで「朗誦」を試みれば、やはり「なにがしかの詩的感情」が浮かびそうな気がするのは、僕だけではあるまい。「読みやすい文体」や「分かりやすい文章」を「国語」では学習することになっているが、どうもこんな「音数律」の次元などは埒外のことであり、それほど「意味」とか「構成」などという「技術」のみに偏向していることを、自覚すべきではないのだろうか。
当座の会話の中にも機知を
「黄金律」に気づかぬは貧困なる生活なり
言語生活を豊かに、ってなんだろう?
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