音を歌に詠むこと

2016-09-25
「唐衣うつ声きけば月清みまだ寝ぬ人を空にしるかな」
(『貫之集』第一・25)
音を詠み込んだ和歌について

和漢比較文学会大会に参加し、京都大学の大谷雅夫先生の御講演を拝聴し、「音」を歌に詠み込むことについて考えさせられた。冒頭には著名な杜牧の漢詩「江南春」を引用し「千里鶯啼緑映紅」(千里鶯啼いて緑紅に映ず)の起句において、千里(500㎞)四方に「鶯が啼く」とは、実に多くの鶯の啼き声を描写しているという指摘があった。この詩は僕個人としても大変興味があるもので、転句にある「南朝四百八十寺」(なんちょうしひゃくはっしんじ)という原詩の韻律がほぼそのまま訓読に反映され、平仄のことも考慮して「はっしんじ」と読むことには、高校時代から気になっている詩であった。複数性の「鶯の声」を題材にしつつ、漢詩全体が「韻律」に対して大変鋭敏な感覚で創作された詩であると評しておこうか。そんな意味で、教科書編集に携わった際も、この詩を筆頭に掲げて「漢詩のリズム」という点に光をあてる内容としているのである。

一方、和歌では「花も匂ふ春の燈消えやらでかたぶく月に竹の一こゑ」(『夫木和歌抄』春部ニ「鶯」)のように「鶯の声」は単数で詠み込まれているというのが、大谷先生の指摘である。確かに我々が「鶯の声」を想像するに、ほぼ例外なく「一羽の鶯」であろう。周囲の静寂な環境でその「一声」に心を動かされたという趣旨で歌になる場合が多いように思う。少なくとも「あちらこちらで鶯の啼く」といった描写には、例え現実がそうであっても歌にはならないように思われる。表現創作者の立場となれば、「独り静かに耳を澄ます」という立場がよく、だからこそ歌心に訴える表現になる。どうやら我々は伝統的にそのような単独の聴覚性のなかで、詩歌を創るという観念的な共同体の中に置かれているような気がしてくる。冒頭に掲げた『貫之集』の歌は、「砧声」を詠んだ屏風歌である。漢詩に典型的な、女性が空閨にて夫のことを思い「衣」を夜なべで打つ「音」を描写している。これもまた「鶯の声」同様に、中国詩文での複数性と和歌での単数性が対照的な素材であるようだ。元来、空閨の女性の姿を「三人称的」に描写する詩を「閨怨詩」と称する。漢詩のあくまで客観性に徹した描写に対して、和歌はどうしても「一人称性」が常に意識される。この歌も屏風歌ながら、広域な場面ではなく限定された空閨からの「声聞けば」という状況で「まだ寝ぬ人」を知るという歌に仕立てているのである。あらためて、創作者視点や場面設定の問題として、和漢の詩歌を見つめてみると大変おもしろい点が見出せそうな思いを抱きながら、講演を大変興味深く聞かせていただいた。

聴覚を歌に詠むこと
素材の複数性と単数性
やはり相対的な比較の視点からこそ、歌が初めて読めてくるものである。
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