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批評性を持つために

2016-09-22
新聞記事の文章は「正しい」か?
文字・表現次元の校正から推敲に至るまで
学校の説明文・論説文教材のあり方や批評性のことなど

小学校よりやや遅く始まった附属中学校における学部3年生の実習も、大詰めを迎えた。台風で順延となったが、この日は一斉視察二日目。ゼミ生をはじめ国語講座の学生たちの奮闘ぶりを、参観に赴いた。「短歌」を教材とする授業では、無記名の生徒各々の自作短歌に対して他者が「鑑賞文」を施し、特に「良いところ」を評する文章を書く。「良い」とするあたりがいかにも「学習」上の配慮ということであるが、敷衍して考えれば他者の表現を的確に「読む」ということである。その上で「伝わるか、伝わらないか」(分かるか、分からないか)を吟味する「批評性」が出てくると、さらに学習段階は上がるということになろう。他者の書いた文章をもとにその後、自作短歌を再び推敲する。修正する場合もあれば、そうでない場合もある。最終的に隣の者同士で短歌を音読で伝え合うという活動もあった。6月に宮崎で開催されたトークで俵万智さん曰く「短歌は日記ではなく、手紙である。」とあったが、他者に「伝わるか」を焦点に批評し合う学習活動は、大変有意義であるだろう。自分の表現を他者の視点から評価してもらう機会を設定するのも適切な学習過程である。その上で尚、「批評性」が芽生えればという次元を目指したいとも僕などは考える。

他学年では説明文の授業。「情報を他者にわかりやすい文章で伝える」というテーマが掲げられている。ここで大変難しいのは、「わかりやすい」を具体的に指標化することである。文字次元での「校正」の要素を施すことと、文体・表現次元で「わかりやすい」かどうかと「推敲」することを峻別して認識しておく必要がある。例えば新聞コラムなどは「規範」となる文章であるのか?もちろん文字次元では、概ね「誤りはない」というのが一般的な認識であろう。それでも尚、新聞記事が「絶対」であるはずもなく、ましてや小欄を含めてWeb上の記事などは、何ら校閲も受けず自由奔放に記しているわけであるから、「誤り」もないわけではない。現に自ら書き記した小欄記事を読み返すと、文字表記次元での「誤り」に気づくこともある。新聞を含めて「記事」は必ずある「バイアス(概ね先入観・偏見のこと)」が掛かって記されている。それを逃れた完全中庸たるものなど、この世にはあり得ない。よって中学校で学ぶべきこととして、特に中2から中3では「批評」という点が学習指導要領にも唱われている。こうして考えると「正しい文章」という言い方そのものが、大変危ういということがわかる。入試に典型的な「国語」の「正解主義」は、こんな「批評性」を育む方向性と逆行する。同時に「言語技術」と「理解・表現・吟味・鑑賞・批評」次元の内容を、「国語」という教科は混在させながら、現場で混沌とした状況で学習が進められているということも分かる。ある意味で実習生の授業は、国語教育上の問題点を大きく炙り出すものとなる。(*個別な実習生の批判にならぬよう配慮して記した”つもり”である。ぜひ「ご批評」があれば賜りたい。)

実習とは、実習生・実習校教諭・大学教員がともに学ぶ場であろう。
僕自身も学生たちの指導で何が足りないかを存分に認識できた。
「教育」とは、こうした地道な場を重ね重ねて「手作り」をしていくしかないのである。
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