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定型「五・七・五・七・七」の底力

2016-09-13
「わが旧き歌をそぞろに誦しをればこころ凪来ぬいざ歌詠まむ」
(若山牧水・歌集『山桜の歌』より)
歌を声に出して朗誦する力・・・

『牧水研究』という年1回刊行の研究誌に、やや長めの評論を投稿させていただいた。その著者校正を終えたので、聊かその内容に関連したことを記しておきたい。冒頭に掲げた歌は僕なりに深い興味を覚え、今回の評論の起点として提示したものである。「私の旧い歌を何ということもなく朗誦しているとこころに平穏な凪が来るのである、さあ歌を詠もうではないか」といった解釈になろうか。この歌自体が、牧水らしい平明で調べのよいものに仕上がっている。ここで僕が興味を抱くのは、「歌の朗誦」の効用である。自分の過去の歌を「声に出して読む」と「こころに凪が来る」という状況になるというのが面白い。それは声に出さず「黙読」しているのでは駄目で、「誦しをれば」でなくてはならないのである。僕も最近は実行しているのだが、歌集を読む際に「声を出す」ようにしている。すると「黙読」では感じ得なかった歌のよさがわかるようで、やはり「こころ」の中に何かが宿ることが多い。

これまでに〈教室〉における「音読・朗読」の功罪や効用について論じ、新たな方法の開発や朗読会などを実践してきた身として、やはり歌は「朗誦」しなければ「こころ」の中に落ちて来ないような実感がある。これは著書にも記したことであるが、「せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ・はるのななくさ」と定型で並べれば春の七草を手軽に暗唱できるようになる。同様に「はぎ・ききょう・くず・ふじばかま・おみなえし・おばな・なでしこ・あきのななくさ」となれば秋の七草。僕は中学校1年生の時の恩師が、これを必ず覚えよと声に出して何度も読む学習を促したことに興味を覚えたことが、定型に嵌まる一因ともなっている。最近読んだ「昭和史」に関する本によると、戦前の所謂「軍国少年」たちは「長門・陸奥・扶桑・山城・伊勢・日向・金剛・榛名・比叡・霧島」と戦艦の名を暗唱していた(させられていた)と云う。まさに当時の時代情勢を反映した話であるが、すべてが二文字の漢語でありながら、和語としての読み方を配当し定型に収まっていることに対しては、ある種異様な興味を覚える。著名な芥川の小説『蜘蛛の糸』の冒頭「あるひのことでございます。おしゃかさまはごくらくのはすいけのふちを、ひとりでぶらぶらおあるきになっていらっしゃいました。」(敢えてひらがのみの表記とした)なども、定型に近似したことばの調べのよさを活かした文体である。「音読・朗読・暗誦」を考える時、このような日本語の特質に関して、更に興味をそそる実践が現場で求められるであろう。

「ことば」は「調べ」を伴い、その根源は「声」である
「愛誦性」こそ短歌の重要な要素であると、佐佐木幸綱先生の今年の大会での弁
せめてひとり一人の感性・情緒を豊かにし平和に導くような内容を暗誦したいものである。
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