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沈着し定着する時間差ー「見た瞬間にわかる」はご用心

2016-09-10
見た瞬間にわかり過ぎてはいけない
身体も数週間後に結果として顕われる
「いま」は過去に支えられ未来を築いている・・・

巷間では「リピーター」という外来語が頻繁に使用されているが、飲食店や旅先の宿などで好感触だった場所をもう一度、あるいは何度も訪れることをいう。「また食べたくなる」とか「また行きたくなる」という衝動を起こさせる料理や場所というのは、何らかの理由あってのことだろう。日常的にほとんどファーストフードを食さない僕としては、それらの店舗や飲食物が持つのは「利便性」であり、決して本来の意味での「リピーター」を招く力があるわけではないと思っている。ファーストフードのような米国的食文化に侵食された環境の中で、むしろその真逆を行く飲食店や場所にこそ、真の魅力が見出せるのではと思っている。材料の吟味から調理法、手間暇をかけた客への思い遣り、そして何より料理やおもてなしへの高い志、こうした奥行きを見抜く眼力を持って生活をしていたいと常々思うことがある。詩歌論を読んでいると、同様な発想に出逢うことがある、「見た瞬間にわかり過ぎてはいけない」と。

読んで読んで読み尽くす、骨をしゃぶり尽くすように解釈する。よく古典研究者を評する至言にこのようなものがある。その研究姿勢を見習いたいと思いつつも、対象となる「古典」に「しゃぶり尽く」されても味があるほどの奥行きがあることを尊重したくなる。名歌の条件とは、幾通りもの読み方を許容し、多様な人に多様に楽しんでもらうことのできる懐の深さなのだと痛感する。よってファーストフードのように、「見た瞬間に味がわかる」ようではいけないということであろう。読者が自らの中で解釈を沈着し定着させる時間があってこそ、名歌としての味わいが深まるということになる。先月からの多忙に任せて、僕の中ではトレーニングが疎かになっているが、身体というのもまた同じような気がしている。鍛錬を怠ったその直後に、衰えは表面化しない。まだ大丈夫だと甘んじていると、数週間後に極端な衰えに愕然とすることがある。これは人生の中でもまだ同じであり、いま生きる年代に鍛錬を疎かにすると次の年齢桁になった時に、大きな支障が生じるような気がしている。具体的に述べるならば、僕の「いま」は、2005年から2015年までの10年間の生き方に支えられているのである。そしてまた「いま」は、これからの10年間に確実に連なっている。歌表現というのも同様に、人生の「地層」の上でこそ、その人なりの表現として日の目を見るのではないかと思うのである。

「効率」とか「即効性」などという喧伝
むしろ「沈着」と「定着」なくして「豊かさ」は築けまい
「見た瞬間にわかる」ものにはご用心である。
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