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歩いた其処が道になる

2016-09-09
試験対策とは「学び」なのか?
規定の線路に乗り遅れないために
歩いて先に行かなければ見えない風景があるのに・・・

高校の国語学習はどのようなものであったか?という問いを学生たちとともに振り返る機会がある。すると多くの学生が、2年生後半からはほぼ大学入試対策が中心で、「国語」らしき授業は少なかったという状況が垣間見えてくる。場合によると「センター試験対策問題集」が配布され、各自が問題を解き、答え合わせをするといった「授業」とは思えない時間の使い方をしていたという状況も例外ではない。すると本来は多様な考え方を許容し、その違いから自己の考え方の傾向に気づくといった方向の学習が必要でありながら、結局は「一つの正解」を求める思考に行き着いてしまう。大学に入学してくる学生が「他者と違った意見を言わない」傾向を見せるのも、こうした入試対策教育の”効果が高い”のだと痛感することがしばしばだ。例えば、5人ほどの仲間が後ろを向いているところに、ある一人に向かって「こんにちは」と声を掛ける。声を掛けられたと思った人は振り向く、というコミュニケーションゲームを実施すると、殆どの学生が後ろを振り向こうとしない。それは「間違い」を恐れた横並び主義の弊害だと、僕は常々思っている。

同様な「試験対策=学び」だという”勘違い”は昨今、大学でも例外ではなくなってきたのではと危惧している。公務員試験・教員採用試験・就職試験などが4年間の目標であり、それらに「役にたつ」か「役に立たない」かで「学び」の内容が選択される傾向である。学校側も「合格率」という数値目標こそが評価指標だと世間から迫られているゆえ、一番効果的に数値が上がることを考える傾向にある。誤解のないように念のため断っておくが、「合格率を上げる必要はない」ということを僕は主張しているわけではない。高校でも大学でも「合格率が高い」学校は、「試験対策に特化」などしていないのではないかと思うのである。むしろ「試験」に対して自分自身で勉強する意欲を高める活動が随所に施されてこそ、「結果」が出るのではないだろうか。公務員として、教員として、企業人としてどのように生きるのか?そしてまた人生の中でその職業とは、どのような意味を持つのか?仕事を度外視した時に、人生はどう歩むのか?そんなことを深く考える時期が、大学時代なのではないだろうか。決して「就職」という「規定の線路」に乗るために「学び」があるわけではない。こうした傾向の同線上に、若者の「恋愛忌避」傾向もあるように思えてならない。

ある同志の方と会食
自分たちの信じた道を前に進んだと確信する時間となった。
「みな人にそむきてひとりわれゆかむわが悲しみはひとにゆるさじ」
(若山牧水・第一歌集『海の声』より)
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