語り手は感情を表わさず
2016-09-05
メッセージを如何に伝えるか物真似それとも淡々と読めばよいのか?
実用的音声表現の実践にあたって・・・
東京に戻り、先月から入院している親友を仲間たちとともに見舞った。先月の教員免許更新講習を担当する日の朝、仲間の一人からメッセージが入り、彼が緊急入院をしたと知った。あまりに突然のことで、講習に向かう気持ちが自分でも維持できないほどに動揺したほどであったが、そこは〈教室〉では”プロ”であると自己を奮い立たせ、何もなかったかのように朝から夕刻までの講習を実施した。その後、しばらくは仲間たちからの情報を得ながら彼の快復を祈る日々が続いた。今回の在京している機会にぜひお見舞いに行きたいと思っていたところ、面会できる状況になったというので、仲間たちで集まって病院に出向いた。だが米国在住の仲間の一人だけは集まることはできないので、親友へのメッセージをもらって僕が「朗読して伝える」ということになった。見舞いという実に敏感な場で、どのような読み方が求められるのか?まさに実用的朗読実践の場に僕は立たされることになった。
親友は、予想していた以上の回復ぶりで仲間たちも次第に”いつも”の会話が戻ってくる。だがしかし、やはり病室というものはどうしてもある種の緊張が伴わざるを得ない。病床にみんなで行って間もない頃に、今日来られないあと一人の仲間からはメッセージをもらっているという話になった。急遽、伝える場が与えられ普段は緊張知らずの僕であるが、聊か硬い調子でメッセージを伝え始めた。事前に仲間からメッセージをもらった時は、本人の口調でも真似て朗読しようかなどと考えていたものだが、病室という雰囲気がそんな思惑を一掃し、僕は淡々とメッセージを伝えた。親友は喜び目頭を熱くして聴き入っているのが、僕も語りながらわかった。いま思えば、僕自身はメッセージの発信者でも受信者でもない、誠に第三者的な立場から余計な感情を排して伝え続けたと言えるだろう。たぶん親友は、僕が客観的に伝える声の裏でメッセージの発信者である仲間の声を想像して聴いていたに違いない。その場には、口調を真似たりといった余計な演出は蛇足以外の何物でもないだろう。語り手は、感情を持っては伝わらないということを、この実践を通して痛感した。
「真似しないんですか」
「いや!いまの伝え方が心に刺さったよ!」
病室での明るい会話に親友の快復への明るい希望が見えた。
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