出逢い・学び・変わり・明日へ

2016-09-03
出逢いは相互の学びであり
学べば己の中に変革がもたらされる
〈教室〉は希望の明日への出発地点

集中講義最終日。3コマ×5日間=15時間の講義が完結した。今夏は本務校の図書館司書講習の4日間とともに、短期集中講義を2種類手掛けた。約4ヶ月間にわたる15回講義とも違い、短期ゆえの感慨を持つことも多い。受講者と出逢い、次第に馴れ親しみ、思考や言動に変化が見え始め、そして別れるというサイクルが、日々顕著な形で体感できる。漢詩の絶句構成のごとく、起承転結が明確な形で起ち顕われるわけである。いやむしろ、そのような授業構成を仕掛けるという方が適切かもしれない。いわば絶句などの短詩系文学を読んんだような、瞬くような感慨を受講者が抱けるように、全体の授業を組んでいる。特に「教職」に関係した授業であるならば、その「授業」そのものが「教育方法」や「教育効果」を示すものでなければならないというのが、僕の持論でもある。「授業」というボックスに入ってきた受講者が、出て行く時には何らかの変革を伴っていなければならないということでもある。

集中講義最終日。5日間のまとめとして、SNSなど我々を取り巻くメディア環境は何をもたらしているのかという点から対話を始めた。SNS上に振り撒く言語と日常生活に対して、国語教育は学習者にとって何をもたらしているのか?公の顔と私の顔と、SNSでも教室でも二面以上の多重な仮面を意識しながら、中高大学を通して自己形成をしている姿が見える。己の真意とは何か?自分自身でもそこを自問自答しながら、過去とは大きく変化した社会性の中で学生たちは生きている。それだけに「メディア」の問題を考えるにあたり、むしろ「人間性」は不可欠であると僕は強く主張する。僕自身の体験としての幼稚園における「心を育てる教育」は、文学と教育を融合して研究を進める僕自身の原点でもある。物語・小説を楽しむ授業であること、決して指導者はその解釈を押し付けたり、威圧的な態度で学びを醸成してはならない。喜怒哀楽様々な感情の襞を存分にその虚構世界から追体験するということ。そこで味わえる葛藤は、我々の人生そのものなのであるから。物語・小説(または短詩)と違ってSNSでは、半ば「現実」だと思い込みながら、その架空性との境目を見失いがちである。この集中講義をWeb配信で行わない理由も、まさにそれを回避するためにある。僕という担当者が現前性をもって、学生たちへと人間性を披瀝し、彼らの志を触発し、その奥に眠る何物かを目覚めさせる必要があるからだ。最終日の学生たちの言動に、僕は十分な手応えを感じ取ることができたと自負できる。

変化したと思われる自分
それをどのようにするかは今後の生き方次第である
僕自身の中にもまた、新たなる野望が起動した5日間であった。
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