心をことばにする日常

2016-08-24
〆切だからと特別に構えない
日常の中に行動を埋め込んでおくこと
毎月必ず提出すると決めている歌の原稿

毎月20日は、地元歌会の提出〆切、そして25日が短歌結社の雑誌への歌稿(短歌を記した原稿)の〆切である。当初はいずれも〆切に合わせて、まさに”捻り出す”がごとく歌を詠んでいたが、最近はその1ヶ月の蓄積の中から、適切な歌を選び最終的な推敲をして提出できるような流れができた。もちろんすべてが納得のいく歌でもなく、歌会の場に行くと常にもう少し工夫があればなどと自己の表現を省みることしばしばだ。だがしかし、まずは「〆切」が設定されていることで、このような生活習慣が出来上がってきたことを、約1年の成果と考えてもよさそうである。一般的に「読書」などの習慣でもそうであるが、「忙しいからできない」のではなく「忙しいからこそ読書をする」というのが正統なる読書家の態度であろう。知人である大変忙しいジャーナリストの方が、いつもTwitterなどに読書した書物へのコメントを掲載しているが、時間の捻出の仕方、そして読書への集中力を、Twitterなどの記述から想像するに、やはり生活の中に読書が組み込まれていることを深く考えさせられることが多い。

短歌とは、何でもない日常をことばで繊細に切り取る行為である。先日の短歌甲子園観戦に際し、高校生の清々しい歌を鑑賞して、そのような思いを新たにした。反対側から物を言うならば、短歌を創ってなければ、生活の中にある大切な思いをことばとして残すことはできないということになる。俵万智さんはその御著書の中で、生活の中で出会った「心の揺れ」を捉えることから短歌ができると云う。そしてどんなことばで表現することが適切か、常に考えている。机に向かって椅子に座り、ペンを持つから歌ができるということでもなさそうである。机上での作業はあくまで最終段階の推敲とか、歌稿に記す際の行為ということになろう。『古今和歌集』仮名序冒頭「やまとうたは、人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける。」が宣言するように、和歌は抒情性から成立するものであるゆえ、まさに日常の己の「こころ」に正対する眼差しが求められるということだろう。高校生の歌が清々しく響くのは、彼らの日常を素直にことばにしているからである。そしてまた「詠む」だけでは十分ではなく、日常で「読む」ことが必須である。最近は枕元に好きな歌人の歌集を1冊置いている。どんなに眠くとも、就寝前に歌を最低30首は読むようにしている。これもまた習慣にすれば、その行動は決して苦にならず楽しみの一つとなる。

8月も投稿完了
自らの表現が手を離れ批評されることの愉悦
こころを露呈してこそ「生きている」証が立てられるというもの。
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