71年目の夏ー「立ち止まる力」に学ぶ
2016-08-16
「時間の芯」を先に置き「つんのめりそうに」「アクセルを踏み、スピードを上げる」ことばかり躍起になる社会
「いま」を大切にする子ども、「立ち止まる力」があるのは「弱者」・・・
71年目の8月15日を迎えた。最近殊に思うのは、自分が生まれた時点から「8月15日」に遡る距離よりも、遥かに長い時間がその後に経過したという事実だ。両親から幼少の頃の戦争体験を聞くこと、街頭で目を伏せて直視できなかった傷痍軍人の奏でる曲の記憶、東京下町でも焼け残ったと云う寺社の多い谷中界隈の戦前のままの街並の思い出、そんな「戦争」に連なる経験を僕の世代は世代なりに表現し、後世に確実に引き継がなくてはならないという思いを強くするのである。このような思いで「15日」を過ごしていると、宮崎日日新聞の「客論」欄に、地元劇団「こふく劇場」代表の永山智行氏の論説が掲載されていた。永山氏とは一連の芸術家派遣活動で関係しており、以前に1度、小学校で行われた彼のワークショップを見学に行く機会があった。身体表現全般に子どもたちを出会い直させる、人間味豊かなワークショップであった。今年度も僕と共同実施の派遣事業が既に企画されており、近々企画内容の相談をする算段となっている。その永山氏の論説内容は、概ね冒頭に記したような内容であった。
我々は往々にして「来週や来月の予定につんのめりそうになりながら、目の前にいる大事な人と過ごす『いま』という時間を味わうことなく生きている、」というのである。まさに自分自身のことを単刀直入に言われたような思いで、その文章内容に痛烈に引き込まれた。「わたしたちはそれぞれに、自分自身の物語を生きていますが、これまで生きてきた自分の人生を、『なるほどこんな物語だったのか』と振り返り、『いま』立っている場所をあらためて知り、味わう、そのためにもやはりいったん『立ち止まる』ということが必要になります。」(「 」内は宮崎日日新聞「客論」欄8月15日付永山智行氏より引用)そしてまた「弱者と名づけられる人々」こそが、「社会にとって必要な『立ち止まる』という能力を備えた人たちだと思うのです。」と云う。そして既に、こうした「人々」と歩めない傾向が社会の端々に表面化し、「暴走」や「破滅的な結末」となっているのも、日常に「平和」が失われ始めている兆候だと僕は思う。「平和を重んじる」とか「戦争の惨禍を決して繰り返さない」といった儀礼的語彙を散りばめた表面的な言葉には、謙虚に「立ち止まる力」を感じることはできない。時に、社会の荒波に翻弄されて、本意にあらずアクセルを吹かし続ける状態に、僕たちは陥りがちだ。「暴走」傾向が見え始めた時こそ「立ち止まる」ことを受け容れ、「いま」の自分が立っている場所を見つめられる柔弱な構えこそが、「己に謙虚に向き合う」最善のあり方なのではないだろうか。
「立ち止まる」ためのことばを探す
探したらまた謙虚に修正を繰り返す
標語たる「平和」ではなく、一人ひとりが「いま」を省みればこそなのだろう。
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