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越境する心 蠢めく志

2016-08-14
和歌・短歌研究・国語教育・詩歌研究
越境し合う研究分野をどう繋いでいくか
「短詩系文学」を志す若者の感性との融合も目指して

20代の頃、新卒ですぐに中高一貫校に赴任した際には、脇目も振らず毎日の学活・授業・部活において、生徒たちと向き合っていた。「学校」そのものも楽しい環境で、同僚の先生方も顰めっ面で融通の利かない人々がいないわけではなかったが、概ね「遊び心」があって毎日の職員室が楽しかった記憶がある。昼飯は何にしよう?とか夕方になればどこに呑みに行くとか、同僚間のコミュニケーションも十分過ぎるほどで、学生時代の「青春」がそのまま続いているかのような感覚があった。だが30歳を過ぎるにつれて「楽しさ」ばかりでいいものか?という疑問を抱くようになり、再び「和歌研究」に勤しもうと現職は続けながら大学院修士に入学した。元来僕は、こうした身分上においても、型通りではいられずにすぐに「越境」を選択する傾向がある。「和歌」において「比較文学」の立場で修士論文を書き、後期課程にそのまま進学すると、現職教員である立場を活かすには「国語教育」の実践論文を書くべきだと思い立ち、「漢詩」や「和歌」の教材論や授業方法実践理論に関しての論文を書いた。昨年もある機会に、他の国立大学法人に勤務する先輩に言われたことがあるが、「現職経験がある」(しかも20年以上)という点が、今や「君の強み」であると云う。元来が「文学研究」から出発した僕であるゆえ、その内容的探究なくして、「国語教育」の実践は決して良くはならないという信念がある。「越境」とは言うのだが、もとより「境」にこだわること自体が「狭量」な視野ではないかと思う。

先月の新刊・岡井隆『詩の点滅 詩と短歌のあひだ』(角川書店)を読んでいると、まさに詩歌ジャンンルの「境界線」について深く考えさせられる。その帯にあるように「侵食する詩歌の境界線 短歌、俳句、川柳、現代詩」といった視点は魅力的だ。岡井隆だから書けるといえばそれまでだが、様々な意味で危機に瀕している「文学研究」においても、やや技術的な方向に偏りを見せる「国語教育研究」においても、こうした「侵食」の視点こそ突破口として大切なのではないかと思うのである。そんなことを考えつつ、昨年10月に開催された和歌文学会大会(岡山大学)のシンポジウムを元にした論文を読み返してみた。「和歌リテラシー」を提唱する筑波大学・石塚修氏の論文では、「読む」のみならず「詠む」、所謂「書く」分野まで(朗誦まで広げれば「話す 聞く」も含めて)間口を広げて「和歌」から「日本語」としての大切な要素を扱う学習活動の構築について提言されている。「近世文学・国語教育」を専門とされる石塚氏が、このような発言をする点が、まさに「越境」的であり魅力的である。その後、若手の短歌・俳句創作者との連携を模索する出版活動に従事する先輩へと連絡。既に若手創作者の間では、こうした「侵食」が心地よく成されているように僕は受け止めている。来年(2017年度)には、本学で和歌文学会大会の開催が決定しているが、前述した岡山大学でのシンポジウムを継承し発展させる企画を模索しつつある。「文学」として「和歌・短歌」はどう進みゆくべきか?そして「国語教育」の中で、どのようのその真価を伝えていくべきか?そんな展開への志が、僕の中でひしひしと蠢き始めている。

「遊び心」も大切に学んでゆきたい
越境し侵食していると、いつしかそこに「境」はなくなる
殻に閉じ籠ることなく、自分を追い越して行きたいと思うことを「志」と呼ぶ。
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