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あらゆることに「絶対」はなし

2016-08-13
「自制と謙虚さを持つ歴史感覚」
「絶対」を使用しないようにするわけ
「かの夏に掃射逃れし少年の繋いだ命われここにあり」(自作短歌・中村佳文)

ちょうど1年前のことである。宮崎の伊藤一彦先生とともに大学時代にお世話になった佐佐木幸綱先生に勧められて「心の花」に入会した。それ以前に何回か宮崎歌会に出席した際には、「古典和歌」の側面から「講評」を述べるのみであったが、1年前の夏から「創作」に勤しむことにもなった。今でも歌の出来栄えは納得いかないものが多いが、なぜか最初期に創って初めて歌会の詠草に載せた冒頭の歌が、伊藤先生によって「今日の5首」に撰ばれた。それは何の飾り気もなく、「戦後70年」の節目に生きる僕自身の存在そのものを、素直に表現した歌であった。以前から僕の「父」が戦時中に、家の近所で「機銃掃射」に見舞われて、向かいの家に転がり込んで、命辛々難を逃れたという話が僕の頭に焼き付いていた。もしかすると「これ」が、戦争を知らない僕の「戦争体験」なのではないかと思い、何かに記すべきだと強く思っていた。その時にもし「一般市民」でしかも「子ども」であった「父」が、「掃射」に射抜かれていたら、僕自身はまさにいま、この小欄を記すことさえできていないのである。

物事に「絶対」はない。いまある「命」さえ「絶対」なものではなく、様々な「偶然」が折り重なって得られた「奇跡」なのであろう。人との出逢い、住む土地との相性、その日その時に何処にいて何をしているか、幸運も災難もみなわからないように仕組まれていて、知らないままに急に「人生」という「舞台」で「脚本」が展開し、しかも「演出」される。その「幸運」にも「災難」にも決して「絶対」はない。それゆえに「絶対」の同義語や語感を持つような言葉で絶叫の如く語られる五輪中継にも、甚だしい違和感を覚える。「メダル」はすべて「奇跡」の為せる技であろう。思考なき「熱狂」によって、人は「子ども」に対して「機銃掃射」をする「狂気」な状況を生み出した。今年はあらためてそのような「狂気」がなぜ成されたかを考えるために、半藤一利『あの戦争と日本人』を電子版で読んでいる。「日本人は外圧によってナショナリストになりやすいようです。」とか「時代の空気にたちまち順応する」と書かれた社会状況が、今も尚、いや今あらためて跳梁跋扈していることを憂いつつ、五輪放映も冷静に見つめたいと思う。「戦争の悲惨の記憶が失われて、時間が悲惨を濾過して美化していく」ことの恐ろしさを、今こそ身に沁みてひとり一人が戒めねばならないだろう。

「歴史」を頭から信じず、立ち止まって「歴史探偵」をすること
「冷静に冷静に真実を探り続けること」
自分の命さえ「絶対」ではなかったことを、ことばに刻み今を生きなければなるまい。
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