詩歌教材への敬遠と軽視

2016-08-10
国語の〈教室〉で詩歌は如何に扱われるか?
単元の配当される時間の少なさ
捉えどころの無さから指導者が敬遠することも・・・

大学暦は試験期間や予備日を終えて、今や小中高大各校種で一番遅きに至り夏季休暇期間へと入った。するとまた教員免許更新講習が開講する、一体、大学とはいつ休みになるのだろうかと思ってしまうこともある。いつぞや誰の発言だか忘れたが、子どもたちへの夏休みの過ごし方として「勉強なんかしていては駄目で、夏休みこそ冒険的な新たな体験をすべきである。」といった趣旨のことばを聞いたことがある。群読劇を経験した中学生や大学生たち(スタッフを含めて)は、まさに早々にこうした体験をしたということになるだろう。話は迂遠したが、この日は免許更新講習の担当科目の開講日であった。60名定員の募集であるが、今年は「詩歌教材の能動的学習授業づくりワークショップ」と題したところ、受講者は17名と少なかった。視聴率的な発想で考えたくはないものの、やはり人数が少ないのは寂しいが、ワークショップをするには適した人数ではある。それと同時に「詩歌教材」を前面に掲げると受講者が少ない傾向が以前からあり、むしろその点において、現場教員の意識が垣間見えることの方に不安を覚えざるをえない。「詩歌」はなぜ敬遠され軽視されるのか?

「書かれていないことを読者に委ねて読ませる」といった点に、文学的価値を有する「詩歌」は、捉えどころがなく指導者側に読むだけの「詩心」がないというのも大きな原因であろう。また昨今は「創作学習」も盛んに教科書の課題となっているが、児童生徒に創作をさせたとて、それを如何に評価して指導したらよいかという点において「心得」もないという声も多く聞かれる。また「音読」中心の授業とするが(特に小学校の古典詩歌教材など)、どうしても内容理解までは及ばず、「読むだけで終わる」現状に対して満足はしていないが、止むを得ないといった状況も散見される。韻律性と抒情性を存在原理とする「詩歌教材」で、如何に豊かな授業づくりをしたらよいのだろう?

この日の講習では、1限目に僕の方から「能動的発見学習」として「音読・朗読・群読」を活用した理論提示を行った。その上で、受講者が「授業づくり」に苦労した「詩歌教材」を持ち寄り、その原因を班別(1班4名)で対話する。その後、班内で一教材を選定し「能動的発見学習の授業づくり構想」を話し合う。最後に各班からの発表と相互批評と僕の講評をするという展開とした。受講者は、「詩歌」教材に一定の「読み」を与える(誤読を避けるため)といった方策を盛り込みつつ、「読者個々」の読み方が尊重される過程を経て、最終的に「朗読・群読」で表現し合い、質疑などを含めた相互評価や自己評価による授業構想を発表した。擬音語の扱い方、擬態語に様々なイメージを付加すること、詩歌の内容を「群読」に反映させる方法、動作化を加えた朗読などといった工夫が、各班から発表された。受講者は他校の先生方との対話を通して、新たなる発見をしたと同時に、このワークショップに大変楽しんで参加してくれた。まずは指導者が「詩歌」という存在を好きになることなくして、よい「詩歌教材の授業」は生まれない。「たんか県宮崎」の現場の先生方にこそ、「詩歌」の素晴らしさを深く知ってもらいたいという願いを新たにするとともに、僕の仕事の方向性を再確認した学びのある講習であった。

小中学校の時に響かなくとも、「詩歌」の種蒔きをすること
ことばの美しさ、自己を立ち上げて読む際の共感性
知識・技術にあらず、感性・情緒に出逢う夏休みを過ごしたいものである。
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