いまここにしかない声を紡ぎ出す(群読劇稽古6日目)

2016-08-05
初通し稽古のワクワク感
出演者全員の声が繋がり物語となる
いつも変わらぬは幻想にして、いまそこにしかない声を紡ぐ

大学構内における稽古も最終日、いよいよ全編の通しが実行された。初日に出逢った出演者たちが互いに切磋琢磨し部分的に質を上げてきた各場面が、ようやく「群読劇」として全編が織り成される。以前から芸術家派遣事業でお世話になっている、役者の下舘あいさんも本番衣装に身を包み、当然ながら通し稽古では一際存在感が大きく感じられた。今回あいさんには「聞き手に声を届ける」ことを目指し、出演者たちの「身体的ワーク」を連日の稽古における最初に実施していただき、次第に出演者の表現が「届く声」になっていくという変容が見られた。相互に名前をすぐに覚える「名前鬼」という「鬼ごっこ」、二人一組で呼吸の構造を意識化する「脱力背骨起こし声投げ」、”みぞおち”は呼気を出す際にいかに動くかを把握するために「体感拳みぞおち」、そしてコアを鍛える「腹筋足文字書き」等々、僕も出演者とともに参加して、あらためて教師としてプレゼンターとしての身体感覚を確かめた。こうした身体ワークは竹内敏晴によりそのワークショップや著書により「教師」と関連づけられて展開してきたが、やはり今の時代であるからこそ教員養成に対人コミニケーションを重視した身体の意識化が必要であると、あらためて痛感する。

「役者は通し稽古をする時が、何よりもワクワクする。」演出の立山さんのことばで、この日の通しが始まった。どんなジャンルでも「ライブ」に参加したことがある者なら、誰しも質の程度の差こそあれ、こうした興奮を理解することができるだろう。「デジタル化」に慣れてきてしまった最近の人々の身体感覚では、パフォーマンスはいつでも同質のものだろうと受け止められがちだ。さながらファーストフードの食べ物が、いつでもどこでも同じ値段で同じ味を廉価で保証するかのように。だが、魚でも野菜でもその季節の天候条件でその日にしかない質と味があるもので、決して同質な料理に常に向き合えるわけではない。映像ならばともかく「ライブ」では、まさにその「一回性」にこそ真髄があるように思われる。見逃したら「巻き戻し」をすれば済むというのではなく、いまそこにしかない声が紡ぎ出す、世界でここにしかない「現実」が展開すわけで、これこそが「生きた演技」ということであろう。この稀少性に観客が気づいた時、更に演者は「観客からも力を貰って表現を高めることができる」とも立山さんは云う。実は〈教室〉で展開される授業も同様に「生きている」のであり、学習者と指導者との共感性が成立した時に、真の学びが成立するのであると信じている。どうやら「20〜30年になくなる職業」に「教員」も入っているという衝撃的な事実。一度実施した授業を「再放送」し続けているならば、この予想に妥当性を与えてしまいかねない。ここで述べた「身体性」と「ライブ性」に、人が生きる上での「目に見えない真実」があるとしたら、文学・教育を考究する者として真摯にその現実に向き合うべきではあるまいか。

日常ではないまさに劇的な53分間
大学のホール内にいながらにして星空が見えたような感覚
いよいよ明日は、現地での事前リハーサル(ゲネプロ)である。
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