短歌と演劇・・・言語芸術としての共通点(群読劇稽古5日目)
2016-08-04
ことばを伝えること悲しいことを「悲しい」と言っては伝わらない
文字面に引かれない言語芸術の境地とは・・・
「定型」という与えられた「舞台」で、如何に読者にことばを届けるか。今回の群読劇制作にあたり立山ひろみさんの演出の随所に触れて、「短歌」と「演劇」の共通点を見出している。とりわけ「群読劇」という「ことば」重視の舞台を創るという上で、その共通点は際立っているように思われる。冒頭に記した趣旨の演出指導が、稽古中に立山さんから発せられた。「悲しい」ことは「悲しい」と言っては、読者(聞き手)に伝わらない。歌会に参加しているとよく「結論を自分で言ってしまった」といった趣旨の批評に接することがある。読者を信じてその想像力に託すという、実に微妙な境地に表現を着地させるということ。また「・・で・・・で・・・で・・・でした」式の、「説明」になってしまえばまた、実につまらない短歌になってしまう。まさに「文学」というのは「説明文」にあらず、読者を信頼して投げ出せる勇気が求められる。
稽古の進捗状況を観察していて、いよいよ終盤のシーンが創られるようになった。冷静に視ていたはずであるが、ついついその表現に聊か涙腺が緩み始める。元来が「泣き上戸」な僕であるが、この心のうちに落ちてくる「ジーン」は何なのだろうかと内観して我に帰ったりする。短歌でもまた「心の揺れ」(俵万智さんの著書などでよく語られる)が生じることを逃さず、ことばを選んで表現に仕立てていく。この日の稽古の中で、立山さんが「ヒリヒリを渡す」といった表現で指導に及んだ。「強く伝える」のであるが「突き放してはいけない」という立ち位置。「演者が物語の先を分かっているような表現をすると、その芝居は曇ってしまう」とも云う。どんな著名な作品でも「観客は知らない」ことを前提に、演者たちも「知らない」立ち位置で劇を進めなければならない。芸術の崇高な価値を見失っている世知辛い社会では、この「演じる」ことの本質を虚偽による欺きだと断ずるかもしれないが、これは決して「観客を騙す」ということではあるまい。「サラダ記念日」の著名な短歌は、実は「サラダではなく唐揚げであった」ということは俵万智さんも述懐しているが、その「虚構」にこそ、現実以上の「真実」があるのだ。文学理論では「読者と共犯関係を結ぶ」という批評もあるが、まさにそれが「共感」ゆえにほかならない。
明確な説明と社会的定式
何もかにも「分かりやすい」ことを求める、安易で事務的な社会風潮
僕たちは「豊かに生きる」ことを、決して諦めてはならないのである。
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