先に神経を!次の人に動機を渡す(群読劇稽古4日目)
2016-08-03
相手役の台詞を聞く舞台上のあらゆることに神経を研ぎ澄ます
一行の「文字列」を読むにあらず、生きたことばを語るということ
群読劇稽古4日目。大学キャンパスは試験期間となり、周囲は採点などに勤しむ先生方も多いだろう。だが、僕はいま此処でしか聴けない人たちの声に耳を傾け続けている。群読劇「星の王子さま」は、これからも毎年恒例で企画しようと意図している。だがしかし、今年今月今日の此処に集える人々の声は、「いま」を生きる声でありその交響というのは、この世に二度と立ち現われることはない。表現とはそれほど崇高で稀少な一回性の中での行為ではないかと、毎日の稽古に接し痛感している。人は「いま」しか生きられない、という次元で「いま」しか創れない声の形象世界に僕たちは挑んでいる。脚本・演出の立山ひろみさん・女優の下舘あいさん、ギタリストの下舘直樹さんが手掛けて創造する高度な表現への取り組みに、参加者が応えて大きく変化し成長する姿を見るに、企画・運営の立場としてこのような驚きと発見の連続が、稽古の随所から見て取れる。
冒頭に記したことは、文字にすれば至極常識的なことなのであるが、簡単にできることではない。日常生活でも〈教室〉で行われる授業でも、発話者のことばに神経を向けて、丁寧に繊細に「聴く」という行為は、容易に行われている訳ではない。時に感覚的に、独りよがりに、「自己」というバイアスを掛けて、あくまで勝手に「聞いて」しまっていることが多いのではないだろうか。真に相手のことばに共鳴してこちらからもことばを投げ掛けることを、「愛」であるいっても過言ではない。脚本となった作品の台詞や語りに対して役者は「先に神経を向ける」といった表現によって出演者を指導する立山さんのことばによって、ふとそんな貴重な気づきがあった。同類に「(台詞など)次の人に動機を渡す」ともいう指導もあった。そして、舞台の立ち位置によって、表現の意味が大きく変化する。たぶん日常生活でも恋人・夫婦に限らず親兄弟や親友であっても、「愛してる」人同士なら所作や立ち位置という「表現」そのものに神経を研ぎ澄まし、共感しあって生きているということになるのではないか。それが決して作為的に行われて神経が疲弊するわけではなく、自然に柔軟に行われるということが「愛」なのではないだろうか。ふと稽古中にこんなことを考えた。
現実以上の「真実」
群読劇で描く作品世界への「愛」
文学研究でも教育研究でも、こうした視点なくして何を語らむ、である。
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