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学校では見えないこと(群読劇稽古2日目)

2016-08-01
教科書の文章を正しく大きな声で
学校の授業で行われる音読は人に伝わるものなのか?
演劇的な発想から見えてくるもの

地域連携群読劇「星の王子さま」稽古2日目。限られた稽古時間で、出演者の力を最大限に引き出しよりよい作品を創り出すべく、演出家と女優の二人三脚による奮闘が続く。〈教室〉での音読・朗読を改善し個々の読み方の癖をほどいていく、といった趣旨があるものの、やはり「群読劇」として如何なる作品になるかという点にこだわるのが、お二人の演劇に対する深い愛情と情熱のなせる技であろう。その女優さんの展開する演劇的身体ワークには、教員志望の学生全員に取り組ませたい要素がある。呼吸を中心として自己の身体性の把握、「他者に届く声」とは如何なる身体作用によって発せられるのか?といったことを、頭ではなく身体全体で体感するワークショップである。「声」の根源は「呼気」であり、その呼吸を背中から届けたい方面へ向けて投げる、といった感覚を発声する者が持つことは、日常的にはなかなかないことだ。以前から考えていたことだが、大学での教員養成は、実に頭でっかちになっている。さらにいえば「技術的」に成り下がっているともいえるだろうか。一番の問題は、この身体性コミュニケーションの欠如などだといってよい。

脚本・演出家の方から学ぶことにも、計り知れない貴重な気づきの連続だ。当然のことながら、聴衆がその作品を知っていると思っても、表現者は「お客さまは全く知らない」ということを前提に「伝えよう」としなければならないと云う。〈教室〉というのは、物事を「知るべき」という意識が先行し、「知っていないと恥」という感覚が強迫観念になって、なかなか「知らない」ということを言える環境にはない。あるいは指導者が「読み語り」などをする際にも、「既に1度読んだ」ことがある絵本であると子どもたちが「知っている」ことに甘えて、「本気で伝えよう」という意欲に欠けてしまうことが多い。これと同じことが、教科書の「定番教材」における教師の授業にもいえるのではないかと考えたりもする。己が授業の指導を通して「知っている」ことに溺れた授業実践を、無意識に続けていやしないだろうか。これは校種を問わず、何十年も変わらぬ大学の「講義ノート」などというケースも同様であろう。「学び手は初めて」という基礎基本に、表現者の原点があるようにも思われる。

さて2日間の稽古は急ピッチながら
「奇跡的」とも思える化学反応を生み出しつつある
志を持って集い合える若い力の逞しさを思うとき、表現の素晴らしさに心打たれる。
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