わが悲しみはひとにゆるさじ
2016-07-26
最近、常に携帯する文庫本『若山牧水歌集』(伊藤一彦編 岩波文庫)
その歌に励まされ勇気づけられ
「われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ」
(『若山牧水歌集』岩波文庫「海の声」より)
文庫冒頭から頁を開き、最初にある歌である。牧水若き日の第一歌集『海の声』の歌が抄出されている。私が短歌を詠んでいる、するとわけのわからぬかなしみなどにいつもいつも追われているようなものだ、といった意味になろうか。(「うたへり」や「つつ」の解釈は多様であろうがひとまず)「故わかぬかなしみども」と詠歌という行為が、日常的に密接な関係であることが読み取れる。短歌は元来「抒情的」なものであるとされるのは、『古今和歌集』仮名序以来の伝統である。古典和歌でも、桜花が満開である心を詠むことよりも、むしろ散ってしまう儚い心を詠む歌が勅撰集では中心である。となれば自ずと「抒情」の題材は、「よろこび」よりも「かなしみ」ということになろう。
大学学部時代に佐佐木幸綱先生との交流を通して、「失恋」のような精神的な痛手があると短歌を詠めるようになる、といった趣旨のお言葉を直接ちょうだいしたことがある。自己の心の中で燻る苦悩を歌に詠み表現することで、精神的な発露になるとともに、大仰にいえば自己存在・人間存在の探究ということにもなろう。今あらためて牧水の歌を読むに、若かりし日の牧水もやはり同じような階梯を経て、短歌の道を歩み始めていたのだということが知られる。若さゆえの苦悩もあれば、年齢を重ねてようやく至る苦悩もあろう。最近の世情として、苦難を避けるといった傾向もあるやに思われるが、やはり生きる上での濃淡があってこそ、一抹の歓びに初めて到達できる境地があるということか。「かなしみ」と苦悩を背負うことで、ようやく人の愛情の奥深さを知ることができる。誠に人間とは鈍感な生き物なのだと、我を省みて思うのである。最後にもう一首牧水の歌を挙げておこう。
「みな人にそむきてひとりわれゆかむわが悲しみはひとにゆるさじ」
(『若山牧水歌集』岩波文庫「海の声」より)
「歓喜」や「愛情」を知るために欠くことができない「悲しみ」
その「わが悲しみは決してひとにはゆるすまい」という牧水の力強い声が聞こえる
「ひとりわれゆかむ」という若き日の牧水の矜恃が、その後の秀歌を生む礎なのであろう。
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