躊躇せるのちの我が身の哀れさよ

2016-07-25
目的とする店のシャッターが降りている
路地で躊躇し引き返すところにバイクの左折
脚の直前で車輪は止まりまだ護られていると我に帰る

様々なことを同時進行で背負っている折に気を付けたいのが、聊かの躊躇である。冒頭に記したような事態を経験して、あらためてそう思った。歩きながらも抱え込んでいる課題について、あれこれと詮索している。自ずと視野は狭くなり周囲が見えなくなる。それでも尚、僕の場合はどなたかに護っていただいているような感覚で、すんでのところで難を逃れた。躊躇する身こそ哀れなのであり、迷わず路地を横断し切れば向かい側の歩道にまた歩むべき道が続く。研究学会での質問、新しい企画への参加、そして新しい分野への挑戦などにおいて、躊躇した我が身こそ何より後悔が残るのである。

中高教員であった頃、臆せず大学院修士へと挑戦した。その契機は、研究学会で僕が質問をしたことであった。その質問の内容に対して、実に的確だと賛辞を寄せていただいた一人の先生がいらした。それこそ、のちに大学院指導教授となる先生である。暫く現職教員をしていた僕は無意識に聊か傲慢な感覚を持っていたのだろう。周囲の院生諸氏には、厳しい指摘を受けることも多かった。だが、いつも「現場と両立」している僕を精神的に支えてくれたのが、恩師の愛情であった。その恩師が急逝されて、既に今月で10回忌を迎えた。あらためて当時卒論を代講で担当した教え子たちと、恩師の墓前にこうべを垂れた。

やはりいまも恩師は、僕の「両立」を見守ってくれていた
教え子たちも家庭を持ち親となる世代となった
「自分を信じて研究を続けなさい」恩師はまた笑顔で囁いてくれた。





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