平常心と自己を失うとき
2016-07-23
何が「平常心」なのか?なかなかそれを自覚するのは難しい
それゆえに丁寧に他者と向き合う必要が・・・
冷静沈着、平常心を常に保つなどというのは、容易なことではない。だいたいにして人間がいつも同じなのは、せいぜい生物的な恒常性に関することだけで、精神的な面ではむしろ、いつも「違う」と考えておいた方が適切なのではないかと思うことがある。例えば向き合う相手によって、「ことば」を変化させるように、独りでいるときの「自己」が常に保たれているわけではあるまい。とはいえ、各人が「一定の範囲」に「自己」の存在を置き、常に適切で妥当な線を求めているのも確かであろう。
明治時代に「共同体的な音読」を中心とする「読書態度」が大きな転換期を迎えて、出版文化の隆盛と相俟って、ほぼ明治30年代から40年代に至ると「個人読書」による「黙読」が成立したことは、既に前田愛などによって指摘されている。最近、この日本近代の「読者のあり方」に関しての原稿を書いたが、「音読」から「黙読」への移行が「共同体」から「自己」を切り離すことになり、その「自己」存在とは何かという問いを、文学は諸作品の中で模索したという近代の歴史がある。一次言語(声の文化)であれば繰り返しや感情移入によって、むしろ共同体の中で自己表現を対話的に定位できるため、自ずと「力動的」な表現を生み出す可能性がある。そんな明治後半から既に100年以上、僕たちは「自己」という蟻地獄に過剰に嵌まり込んで生きているのかもしれない。
さらにはスマホが、現実空間と虚構空間の境を剥奪する
果たしてこれからの子どもたちの「自己」は何処に向かうのか?
生身の人間同士の対話からしか見えない「自己」を大切にしたいものである。
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