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文章読解力とは何か?

2010-05-27

26日(水)よく「読解力とは何か?」と問われることがある。そして、それを養うにはどうしたらよいか?と。大概の場合が、その「読解力」を手軽に身に付けるにはどうしたらよいか?という意味での問いかけである。されど、「読解力」などそう簡単に手に入るものではない。単純化して考えている自体が、「文章読解力」の真意が分かっていないということだ。

ことばは、語彙・文法を基礎として、特に日本語の場合、漢字という大きな要素がある。そうしたいわば、言語技術が礎となるべくして、部品のように一定の目に見える体系で存在している。あたかも、プラモデルの部品のようなものが言語技術である。それを、人々は各人の方法で文章に組み立てていく。しかし、その組み立て方は千差万別、単純なものから難解なものまで、むしろ簡単に分からないように、独特の組み合わせを楽しむ作家や批評家・文学者が多く存在する。

「文章読解」とは、このそれぞれの組み立て方の道を辿る旅である。自らの思考をフル動員して、暗闇の中で言語がどのように構成されていて、どのような脚色があり、どのような仕掛けがあるかを探る、知的な旅行である。その辿り方は、自分で地図を読み、自分で歩くしか方法はなく、他人に歩いてもらった道を、話に聞いて身につくものではない。いわば、常に実践的な体験を繰り返すしかないのだ。

スポーツに喩えるならば、それは全て試合のような実戦形式。相手がどのように対応し、予想もしない変化で挑んでくることに、こちらも対応しながら身に付けるしかないのだ。一定の実戦経験がるものは、だいたい試合勘がついてくる。そして究極の技術を持った選手は、意識しなくとも身体が反応するようになる。「文章読解」とは、教わるものではなく、自分の力で実戦形式を繰り返し、体験し体得するしかないのではないかと考えている。

その、ある意味で苦痛を伴う歩みを、簡単な指標として共通認識にしようとする、愚かな行為を目指そうとする人々もいる。すると知的教養が持っている、闇の中で発見する喜びなどを理解するレベルにないことになる。あくまで文章読解とは、見知らぬ道を新たな発見を求めて歩む、知的冒険なのである。

しかし、「知的教養」といっても、通じない輩が多い時代

 Webの進化やサブカルチャーなど、多種多様なものが散在する時代であるが

 であるからこそ、知的教養というものを、もう一度見直してみるみるべきである

 「読解力」が簡単に手に入る、それは幻想でしかない

 たった一つの方法は、「丹念に文脈を追う」それしかないのだ
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