遠くない明治との連接
2016-07-12
明治生まれだった祖母郷土の昔話もよく聞かせてくれた
大正昭和と駆け抜けた人生から僕が受け継いだものは・・・
母方の祖母は明治生まれであった。幼心に生年月日が「明治」だと聞いいた時、歴史と自分との接点を見出したような感慨があった。その頃もよく郷土に伝わる昔話を、口承で僕たちに伝えてくれていた。なぜ祖母は、こんなにも「昔話」を知っているのであろうか?と驚くこともしばしばであった。例えば、現代において「祖母」たる立場の方が孫に対して、これほどたくさんの昔話を話すことができるであろうか?誠にそれは大きな疑問である。だが、「音読」を取り巻く歴史を調べてみると、そのことが必然な結果であることがわかった。明治というこの国が近代化する過程において、「音読」を中心とする共同体での「読書」から、出版メディアの発達も相俟って「黙読」を中心とする個人の「読書」に変遷したという歴史があるのだった。しかもそれが急激に移行したわけではなく、緩やかに明治期の数十年間を掛けて進行した変化であったと云う。祖母自身の幼少時からの生育環境を考えると、「口承」で昔話を話すことができるのは自然のことだったのだろう。
この一点のみならず、平成の現代でも遠くない「明治」との連接が生きている現象が、他にも多くあるのではないかと痛感することがある。中村草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」の著名な句が作られたのは1931年(昭和6年)ということだが、次第に忘れ去られ続けた明治の「正負の遺産」が、平成の今もなお僕たちの眼前に立ち現われることがあるのではないか。母方の祖父は宮大工であったが、若くしてこの世を去った。だがその本家の所蔵品には、越後長岡藩にまつわるものがあると母から聞いたことがある。明治後期の生まれである祖父母のさらに父母や祖父母を辿れば、容易に明治期や幕末期に至る。すると戊辰戦争のうちなる北越戦争で奥羽越列藩同盟に加わった長岡藩が、どのような情勢であったのかと興味が広がる。幕末明治の大きな世情の変革において、多くの人々の犠牲と努力と悲哀があったことに思いを致すのである。それは決して「遠からぬ時代・明治」の出来事なのだ。「音読」に関して言うならば、昭和の時代までは「新聞を音読する老人がいた」ことは、前田愛の名著(『近代読者成立』岩波現代文庫に所収)で語られていることだ。これぞまさに「明治」との連接が表面化した現象であったのだ。
「音読」を考えるにも明治の歴史なくしては
「短歌」もまた旧派・新派の明治期の対立を知るべきであろう
「世情」もまた、幕末明治期の変革の跡を恐ろしいほど反映した図式が成立している。
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