運命と希望への向き合い方
2016-07-11
「人は運命を持って生まれてくるその運命に気付くか否かということ。」
そのためにも常に希望を失わずに生きる・・・
大河ドラマを視ていると、ふと人生において大切だと思われることばに出会うことがある。先週は歌会があって当該時間に視聴できなかったので、録画を今週の回の前に視聴し連続で物語を追うことにした。そこでは、祖母・とりが高齢になって衰弱している折に真田源次郎信繁が上田に帰郷し、祖母から聞かされることばが冒頭に記したものであった。戦国の乱世を強大な勢力に囲まれながらも、したたかに生き抜く真田家。かの武田信玄にも信任厚かった祖母の含蓄あることば。「なぜ今の時代に生きているのか?」というのは、人間誰しも1度は考える問いなのではないだろうか。生きる時代を責めたところでどうにかなるわけではなく、まずは現状を受け容れることが前向きに生きるための原点であるように思われる。だが、我々はすべての運命に気付くわけでもないのかもしれない。1度しかない儚い命は、実は様々に微妙な均衡の上で寸分の違いで大転換してしまうように動き続けているようにも感じることがある。戦国の乱世ではそれが極端な現象になって表面化する。もちろん大河ドラマを、フィクション(虚構)の産物と見た上での考えである。
どんな時代でもその時代状況に応じて、絶望もあれば希望もある。絶望してしまうのは簡単であるが、何事もどんな状況になっても希望を失わずに生きることが、与えらえた運命に出逢うただ一つの道であるように思う。幸運は歩いてやって来るわけではなく、こちらから歩いて掴み取っていくものだと、今までの僕自身の歩みから実感することがある。それゆえ「気付く」ということは決して受動的なのではなく、自らが能動的になればこそ運命の方も適応して好転してくれることがあるということだ。大河ドラマという虚構が通常の時間より早く放映されて、その後に始まる正時からの現実を伝える報道の冒頭を、正視したくない気持ちが僕の中に充満する。それは現実の報道でありながら、極めて芝居がかって虚構かのように結果を伝えるような始まり方をするからである。そんな「時代」に、僕たちは生きている。そんな状況下でも、いくつもの希望を見出して、明日にまた夢を託すのである。
常に冷静で謙虚で現場主義
民意という理性に希望が見えるところもある
いつの時代も運命と希望への向き合い方に、芯の通った生き方をしたいものである。
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