『走れメロス』が読まれ続ける理由

2016-07-08
「激怒した」途中から始まる物語
超人的な行動のメロス
それでも人間的な弱さも覗かせるゆえ・・・

1960年頃から中学校教科書に教材として採録され、今や全出版社の教科書で所謂「定番教材」となっている太宰治『走れメロス』。50年以上にわたり中学生が〈教室〉で学び続けて来たということは、親子二世代か既に孫の代まで三世代にわたって読まれる小説となっているということだ。大学の講義でも、『走れメロス』を例に取り上げればほぼ全員が概ね筋書きはわかっているという利便性もある。まさに「国民文学」として読まれ続ける理由は何であろうか?たぶん多くの方々がこの小説を「正義感に奮い立ったメロスが、苦難の末に信実と友情を守る物語。」として読んでいるのも事実であろう。演出の効いた劇的な結末と冒頭で語られる王の残虐性に対する印象のみで、この小説の一面しか読まずに終わっているのが現状であるやに思われる。だがしかし、果たして「友情を守れ」とか「信実は尊い」といった道徳的主題に収斂する「読み方」を授業で提供して、果たして本当にこの小説を読んだことになるのかは甚だ疑わしい。そんな閉じた方向での授業が成されるならば、それは50年以上の教材史に対する教師の限りない甘受と怠慢と言わざるをえないであろう。ではどのようにこの小説を「読んだ」らよいのだろうか。

現在、附属中学校の先生方と『走れメロス』に対する取り組みを実行中である。昨秋には、知人の役者&ギタリストの朗読会を実施し、全篇の演劇的表現を聞くのみならず、各所の会話文やメロス自身の内言と語り手が重なる、所謂「自由間接話法」の部分を役者とともに「シャドーイング」したりする機会を、附属中学校の全校生徒を対象に実施した。ここで重要なのは、中学校小説教材を、その場限りのもので終わらせないということ。1年生から読み始め、2年で授業で扱い、3年生となって成長した心で再読するといった、3年間、いや人生にわたる読書としてこうした小説を位置付けたいということだ。もしやメロスの激しい葛藤は、苦難多き社会を生き抜く20代や30代という年齢になった時に活きてくるのかもしれない。その際に、「信実と友情」のみではないメロスの弱さや矛盾を思考した経験があるかないかで、小説を再読しようとするか、思い出しもしないかが決まってくるのではないだろうか。この日に行われた附属中学校公開研究会では、「ワールドカフェ」という四人一組の話し合いをメンバーを入れ替えて2セット行い、その中でこの小説の「魅力」について生徒たちが、他者に決して否定されないという前提のもとに自由に話し合った。「完璧ではない勇者」「題と矛盾して走っていない」「メロスの独り言から心情がよく分かる」「読み手をがっかりさせる演出が効果的」「裏切る気持ちがあるのが人間らしい」「超人的な面がコミカルでさえある」等々、僕自身が授業観察している限りでは、このような類いの「信実と友情」に収斂しない複眼的な読み方が、生徒の中から提示されていた。色に喩えるならば、〈教室〉(学校空間)では「白色の読み方」を押し付けがちなのである。だが、現実社会は多彩であり「黒い」ことも横行するのが常であろう。「人間関係形成力」や「モラルスキル」をも教科学習との関連で学ぶことを理想と掲げてしまう、ある意味において複雑で錯綜した現代社会においては、まさに「白」のみに収斂しないことこそが知的な学びであるということになろう。そのような多様性を認めた文学活動こそが、脳内をアクティヴにし視野の広い若者の心に豊かな種を蒔くことになる。あとは個々の「自己」を起ち上げて萌芽を自力で成していくことになる。

概ね「指導助言」で語った内容を記した
「道徳」の教科化を前に「文学」教材は如何に生きるか?
今まで〈教室〉では言えなかった現実に対し、対話交流授業の導入で新しい扉が開かれている。
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