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季節の交代と知恵

2016-06-30
鬱陶しい梅雨の長雨
降り込められた湿度の中で
「不断の注意と多様なくふう」が必要になる

東京在住時よりも、梅雨時季の鬱陶しさをひしひしと感じる。一つに、雨が”シトシト”降るわけではなく、かなり激しく降るからであろう。この日も朝から雨音のするような強い雨に加え、雷鳴が時折轟く。スマホアプリによって、常に天候・災害情報が警告される設定にしているが、前日から都城市あたりでは、氾濫警戒警報が出されて、河川の水位がかなり上昇したと知った。南国特有の湿った大気が、この激しい雨をもたらすのである。単純に雨の鬱陶しさのみならず、低気圧の停滞というのは、人間の身体にも悪影響を及ぼす。腰や膝の痛み、また身体コンディション全般に影響を受けている方が、身近にも多くお見受けする。昨年には、僕自身も背筋から臀部にかけての張りに悩まされた経験がある。今年はヨガやストレッチで、柔軟な身体を維持する「くふう」で何とか、コンディションを維持している。

寺田寅彦『日本人の自然観』(寺田寅彦随筆集第5巻)には、次のような指摘がある。

「温帯における季節の交代、天気の変化は人間の知恵を養成する。週期的あるいは非週期的に複雑な変化の相貌を現わすためには人間は不断の注意と多様なくふうを要求されるからである。」

ここでは、「季節の交代」や「天気の変化」があってこそ、「人間の知恵」が「養成」されるのだと云う。「複雑な変化の相貌」に対応するゆえに「不断の注意」と「多様なくふう」が求められるというのだ。ここで寺田が云う「知恵」は、もちろん生活する上でのそれであろうが、敷衍して言語表現なども豊かにするのだと解釈してもよかろう。特に1200年以上に及ぶ「やまとうた」(和歌)の歴史においては、言語による季節の把握が繰り返されてきたわけである。西暦905年に成る初の勅撰『古今和歌集』においては、四季の和歌がその逡巡の順序に配列されているわけで、勅命を出した天皇がこれを閲覧すれば、中央集権的な政治の中心人物が、言語文化によって季節を掌握できるという、政治的な意図があるとも視られている。季節の逡巡の把握は、人々に「予測」をもたらし「注意」と「くふう」をあらかじめ準備するに及ぶ。同時に「和歌表現」という文化的な把握こそ、我々現代人が「鬱陶しい」としか感じなくなった季節の「相貌」を、より豊かに享受することができるわけだ。このような意味で、和歌から通ずる短歌においても「季節の言語的把握」という意味で、僕たちに理性的な落ち着きをもたらせてくれる実利的な効用があるということができるだろう。

雨音・稲光・水を含んだ草木の芳香・濡れる衣服
聴覚・視覚・嗅覚・触覚
「鬱陶しい」を「美しい」に変化させることばの力が、短歌(和歌)にはある。
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