擬音語による生命力の実感(短歌裏話)
2016-06-27
「パタパタと母は廊下を歩むらむ寿ぐ酒の残る朝寝に」
(『心の花』6月号に撰歌された1首より)
自らが歩む音というのは、なかなか自覚的に「聞く」わけではあるまい。無意識に歩むだけか、それとも次の行動のことを考えているのか。外でアスファルト上を柔らかなラバー製の靴で歩く現代では、周囲の環境にも喧騒が伴い、なおさら足音に対して僕たちは無自覚になっている。時折、和服を着て雪駄を履いたり下駄を履いたりして初めて、その足音の響きが粋に思えたりもする。さて家の中ではどうだろうか?畳は少なく板の間の多くなった家内では、必然的にスリッパの出番が多くなる。それでも自分の足音は「聞こえて」くるわけではない。僕たちは、誠に自分自身の「生」に無頓着に生きているのではないだろうか?「足音」というのは、確実に「生きる」ことのありがたさを実感できる現象だと思った。「歩む」はその語感に既に「前進する」「成長する」といった意味合いがある。母が家内をスリッパで小刻みに「歩む」その音を聞くだけで、誠に嬉しくなった心を詠んだ1首である。
擬音語の解釈は人それぞれ多様であり、これまで何首か短歌に詠んでみたが、なかなか難しい。どうしても独りよがりな表現になりがちであるが、その微妙な境目を超えれば「独創性」に辿り着けると信じて挑戦している。「パタパタと」はまさに朝寝をしている僕の耳に届いた実感だ。たぶん起床して行動を開始すれば即座に「聞くこと」ができなくなるであろう。時に朦朧とした聊か二日酔いの朝寝にも、効用があるというもの。「寿ぐ酒」については多様な「読み方」を許容すると思われる。母の年齢に関する「寿ぎ」と読むならば、より上の句の「擬音+歩む+現在(視覚外)推量らむ」において、母の生命力を讃え喜ぶ歌と読めるであろう。その「寿ぎ」が楽しい時間であったゆえ聊か飲み過ぎて、「寿ぐ酒の残る朝寝に」と相成るわけである。この「読み方」はこの歌が雑誌に掲載されてから生じた自己鑑賞である。実際の「寿ぐ酒」は、正月の酒である。だが数え歳であった頃は、やはり「歳取り」ということで正月の「寿ぎ」に前述したような「生命への喜び」という趣旨もあったということになろうか。
この日は遅ればせながら
母の日・父の日プレゼントに靴を贈る
その心は「無病息災・健康長寿」を願うことである。
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