「国語教育と道徳教育」シンポジウム

2016-06-26
「道徳」の教科化をどう考えるか?
「なんでも単一なことばで表現すると心が動かなくなる」
「正義など一人では引き受けられず、その恐怖を学ぶ教材へと転化する」

標記のシンポジムに出席した。2018年より「道徳」が教科化されことが決定しているが、学校現場はどう対応していくのだろうか?そして国語教育と道徳教育の境を、どのように考えて行ったらよいのか?評価の基準をどのように定めたらよいか?等々諸々の課題が山積している。抑も国語教育の読解において、読み取りの方向性が「道徳的」な方向性を帯びているという指摘は、この日のシンポジストである石原千秋氏の著書で従来から繰り返し指摘されてきたことだ。試験があるために「正解」を一つに絞らなければならない狭量な読解に終始すれば、自ずと基準に「道徳」的な価値が導入されやすい。そのことに自覚的であるならばまだしも、現場教員が無自覚に一つの考え方を押し付けるなら、大変危険なことと言わざるを得ない。もとより道徳であっても、そこに模範的な基準が定式的に存在するわけではなく、社会の潮流や個々人の置かれた状況によって「正しさ」は多様で、すぐさま反転する可能性が常にあるわけだ。こうした意味で、一定の枠内でのみ思考するのではなく、柔軟な思考過程そのものを学ぶべきなのではないかと思われる。

学生の教育実習を参観すると、その反省として国語の授業が「道徳の授業になってしまった」とか、むしろ逆に道徳の授業が「国語の読み取りになってしまった」という反省をよく耳にする。たぶん現場の指導教員もこうした点に対してある意味で臆病になって、最大の指摘事項にしていることが窺える。だが単一の「読み方」の方向性を定めてしまった狭量な国語教育ならば、「道徳」の色彩を帯びるのは必然であろう。教材に対して複層性のある読み方を、広く考えられるから文学教育は楽しくなるのはずなのだ。シンポジウムで石原千秋氏が提言していたテクスト論の考え方に根ざした教材の読み方が、文学教育の可能性を拡げていく方向を示唆している。『こころ』は旧制高校のエリートたちが、女との付き合い方を紙上レッスンしていたとする。現実で体験し得ないもの、上手くいかないことがあるから文学教育の必要性があるということ。同じく漱石の『明暗』にある「同情するなら金をくれ」をどのように読んでいくか。鷗外の『最後の一句』では、正しさなど一人の人間が引き受けられるほどのものではないという読み方。そして中学校1年生定番教材である『少年の日の思い出』は、「正義への恐怖を学ぶ教材」であり、最終的には「道徳こそが恐ろしい」という思考へと敷衍していくといった指摘があった。石原氏の最後のまとめとして語られた「正しいことなら馬鹿でも言える」という指摘が、強く心に響くシンポジウムであった。

さて「道徳」が独立するゆえに
「国語」はどうしようか?
教師自身の思考の柔軟性が今まさに問われている。
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