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正解と頽廃とマナーのことなど

2016-06-25
人生に「正解」はあるのか?
「難しい」から「楽しい」のではないだろうか?
いまそこにある自己は「均衡」がとれた行動をしているのか?

「正解」を求める学習が、国語教育を大きく歪めてきたことが指摘されてきたのは、既に周知のことだろう。授業でいくら「自己」の独創的な意見を述べても、結局は教師が持っている「正解」は一つであることがわかると、自由闊達な意見表明は失われる。いわば「出来レース」に参加することの虚しさが、蔓延する結果となる。しかもその「正解」に従わないと「横並び」な「空気」から疎外されるゆえ、自己の思考で物事を考えることができなくなる。一見、「理想的」と思われる「正解」は、実は権威に対する迎合に根ざす頽廃した妥協点に他ならない。こうして物事を自ら考えず、「空気」ばかりを読むことを気にするようになれば、次第に物事を前向きに捉えることができなくなり、「自己否定」の「術語」ばかりを発想し発言するようになってしまう。いわゆる批評性の後退は、このような過程で進行し、日本の教育をいや社会全体を、思考なき集団に仕立て上げていく。

権威迎合的な頽廃した妥協点は探るにもかかわらず、「マナー」という観点で社会を眺めると眉を顰めたくなる光景を目にする。昨日も、ある有名な餃子専門店で食事をしていた時のことである。僕の視野に入る位置の若い男女が、仲睦まじく会話をしながら餃子を食していた。それはそれでいい。だがだいぶ後から入店した僕が食べ終わる頃になっても、男子の皿に餃子を2〜3個残し、スマホを見たりしつつ談笑し合いながらなかなかその残りを食べない。店外からは次々と新規の客が「何名ですが入れますか?」などと声を掛けて来る。1名の客は、4人掛けの座席で既に食べている他の1名と相席を勧められて、先客に会釈などしながら注文に及ぶ。(僕もその一人であった)時間帯もよろしかろう、店外には立って席が空くのを待つ客が何組か現れる。よって食べ終わった僕は、先を急ぐこともあったが、すぐさま「お愛想」を済ませ店を出た。もちろん件の2名は相変わらず仲睦まじく、皿に餃子を1つ残しながら談笑を続けている。「相席」という「共同体」が成り立つ空間で、甚だ自己本位なマナー意識を持った2名の行動に、あれこれと思いを致すひとときとなった。

カウンター席に堂々と鞄を置く輩なども
その鞄は何処にどのように置いたことがあるものですか?
批評的思考の頽廃と自己意識の稀薄化がこのくにの社会を小刻みに蝕んでいる。
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