「できる力」を身につける
2016-06-16
「教材を学ぶ」のではなく「教材で学ぶ」ということ
学んでどんな自己実現を叶えるのか・・・
自分自身の「国語教育体験」を顧みれば、ほとんど冒頭に記したようなものにはなっていなかった。各授業の折はおろか、年間計画においても「何をどのようにどんな目標をもって学び、自分たちがどのような力をつけようとしているのか」については、ほとんど提示され意識化されることはなかった。ただただ「教科書(教材)を」学び、場合によるとまったく学習者の意欲が喚起されないままに、「古典文法」をひたすら一人で喋っている高校の教員もいた。それでも中学校の国語の先生は担任でもあったが、「文学」の面白さを持論をもって話してくれていたと記憶する。そのお陰もあって、僕自身は「文学の魅力を読める力」はついたのではないかと思っている。だが、こうした一連の小学校から高校までの「国語教育体験」が、比較的整備されていなかったことが、僕自身が「文学」と「国語教育」を研究する大きな動機にもなっていると今更ながらに思う。いわば「国語」は楽しい教科であることを、多くの学習者と共有し、「文学好き」を増やしたいという思いが、何処かにあるのだろう。
学部3年生の講義科目では、「中高現場」で実践する「模擬授業」を課題として進めている。来る9月には、附属校での実践実習が控えている課程構造上の必然である。3年生は「教育現場での授業ができる力」を、身につける必要があるわけだ。あれこれと悩みつつ暗中模索しながらも、この課題に取り組む学生は、楽しく充実した時間を過ごしているように見える。何より自分が「できなかった」ことが「できる」ようになるのは、人間として根源的な楽しみであろう。そしてまた実践した「模擬授業」を、相互に批評することも肝要だ。他者の視点から自分では「見えていなかった」ことを知覚し、その主体的な「気づき」によって現場対応力も増してくる。何より「理想の授業」があるわけではなく、学習者の実態や環境によって変化すべく「授業は生き物」なのだ。それはまさに「個々の学習者」と如何に「対話的環境」を創り出すかということであろう。この学部講義の学びの原理そのものを、学生が自分の外側にある視点から見つめられるようになることを目指したい。物事を「構造的分析的」に捉えれば、「行動」が変わるのである。それこそが「力」に他ならない。
単元とその目標
ゴールの姿を見定めて有効な道を歩むべく
自明ながら僕自身の「授業」がどうであるかが、常に問われているということ。
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