追悼・モハメッド・アリ氏
2016-06-13
異種格闘技戦での勇姿様々な社会活動
時代を築いたアリ氏が逝く
まだ週休二日が定着していない頃、もとより私立中学校に通っていたので、土曜日は「半ドン」で授業があった。4時間目の授業が12時半に終了すると、僕は一目散に自宅へ走った。確か午後1時から「世紀の一戦」がテレビ中継されるからであった。学校から約15分ほどの道程を、我も忘れて疾走したのを今でも覚えている。そして中学校の夏制服を着たまま、僕は固唾を飲んでその「決戦」を刹那も見逃さじとテレビ画面に集中したのだ。試合は終始、猪木がグランドスタイルでアリの足にキックを入れ、ほとんど立ち上がる場面はなかった。15Rで、ほんの僅かに猪木が立ち上がった折に、アリが数発のパンチを見舞う場面があった程度であった。その硬直して変化しない試合に対しては、数々の酷評が向けられたことも鮮明に記憶している。
当時1976年(昭和51年)は、オイルショックから3年後。プロ野球で言えば第1次長嶋監督時代(王さんをはじめV9メンバー数名がまだ現役であった)だが、まだ高度経済成長期の経済上昇気運が残っていた時代だったように思う。プロレスは馬場の主宰する「全日本」が土曜日の8時、猪木が主宰する「新日本」が、金曜日の8時というともにゴールデンタイムに放送されていた。(因みにラッシャー木村が主宰する「国際」も、月曜日の8時放送)僕は、小学生の頃から祖母が「プロレス好き」であったことから、比較的テレビ中継をよく観る環境にあった。世間一般に「プロレスは茶番だ」という趣旨のことを口にする向きがあるが、僕はそれには真っ向から反対である。たとえ「演技」であったとしても、あれだけのパフォーマンスをするには、プロとしての「鍛錬」が必定だと思っているからだ。猪木対アリ戦に関して言うならば、圧倒的に不利な試合条件下で、猪木がよく奮闘したということだろう。グランドスタイルを15R、キックでの攻撃を続けることで、アリの両脚はその後かなりの痛手を負い、そしてまた猪木の肉体もかなりのダメージであったというのが実情のようだ。「異種格闘技戦」という実現不可能とも思える興行を行う「遊び心」に、大衆も真っ向から注目できた時代であったのだろう。
視聴率38.8%
ベトナム戦争徴兵拒否による世界チャンピオン剥奪
あの時代を築いたアリ氏のご冥福を心よりお祈りする。
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