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「原型・推敲・完成」円環上の苦悩

2016-06-12
ふと口をついて出た表現
推敲に推敲を重ねてことばを置き換える
実は原型や中間過程に復元した方がよいことも・・・

こんな夢を見た。短歌を創ったのだが上手くいかず、推敲に推敲を重ねて悩み抜く自分がいる。表現の着地点が定まらず、右往左往している状態が夢の中で続く。紙の上に書かれた文字に赤字で修正を加えるが、その妙に意図した改変で原型が歪められていくような感覚。絵画や彫刻制作でいえば、結局は「作品」を台無しにしてしまうような興奮の坩堝による反作用の如き状況である。たぶん夢の中ではここまで精緻に思考はしていないだろうが、そんな渦中で目が覚めてトイレに行った。通常ではほとんど夜中に目覚めない性分であるが、それだけに推敲ということに深く思いを逡巡させている証拠であろう。今現在、このように文章を綴っていると、伝えたい趣旨が伝えたいだけの文章量で表現できて、自由演技のようである。だがそれだけに無駄で精選されていない表現を、垂れ流しにしているのかもしれない。

「完成形」とは何か?と考えることがある。自らの論文や文章も然り、また学生のレポート・卒論。そして学生が学びの過程で実施する「模擬授業」などは、「完成形」を求めて萎縮するよりも「挑戦的」なものを創り、その後の対話協議で練り上げていくことが肝要であると説く。何も「理想の授業」があるわけではなく、「授業」に「正解」などがある訳ではないからだ。それでも尚、やはり「授業」などは各自の「経験」に依存した「模倣」から出発せざるを得ない。それだけに、学ぶ者同士の対話を繰り返して「経験」を相対化する必要がある。「これでいい」と自己満足すれば進歩はそこで止まるゆえ、「これでいい」が否定され「発展途上」ながら自信を持って表出できれば光が見えるということか。いずれにしても「原型」「推敲」「完成」は一方通行ではなく、常に錯綜した円環上の複雑な彩の如きものであるように思われる。その「錯綜」が「錯綜」のままで着地してしまっていることを、昨夜の夢は僕に語りかけているようでもある。

落とし所の難しさ
戻ってはいけないのではなく円環上に
ことば見つめてきた筈が、未だ甘き自己の感覚を研ぎ澄ますには・・・

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