撰ばれること再考
2016-06-08
自分自身ではいいねと思っても第三者がそれを撰ぶわけではない
主観と客観・個人と社会のあいだ
会員である短歌会の雑誌が、月に1回郵送されてくる。そこには会員の多くの短歌が掲載されていて、毎度読むことに深い興味を覚える。そしてまた3ヶ月前までに送付した自ら創作した短歌が、何人かの歌人によって撰ばれると掲載されることになる。入会して暫くは客観的に歌を読むばかりであったが、去る3月より歌原稿を送ったので今月号には初めて僕の短歌が4首掲載された。合計で8首の短歌を送った中から、4首が撰ばれたということ。もちろん8首すべてに思い入れはあるものの、創作主体なりの出来栄えに対する優劣の感覚を持っていた。だが、それが尽く「主観」に過ぎず、撰者の「客観」的な眼によると”これ”が撰ばれたのかというのが正直な感想である。推敲に推敲を重ねて練り上げたと思った歌が撰ばれずに、思い付きで即興的にできた歌が掲載されていたりするわけである。
だがしかし、この「撰び・撰ばれる」ということが短歌にとっては生命線であるかのようにも思われる。古来から歌集が編纂されるということは、「歌を撰ぶ」作業ということになる。勅撰集などに撰歌される意義は、計り知れないものがあると、今までも当然ながらわかっていたことが、自己体験であらためて考えさせられる。また、この「撰歌」そのものが、文学・芸術が社会の中で生きるための価値基準ということにもなろう。何事も自己満足した恣意的な感覚が、社会に受け入れられるわけではない。多くの人々の理性的な感覚を知り、まさにその境地で切磋琢磨された表現こそが、万人に支持されていく道を歩むことになる。迫真の魂の叫びか、果てまた創作主体の意思を超えて表現が跳梁するか。あらためて名歌が名歌たる所以の奥深さが思い知られるわけである。「第三者の目」とは「厳選される」ということであり、どこぞの知事の安易な語彙使用には辟易とするばかりである。
撰ばれたことに感謝
母を詠んだ1首を含めた4首の歌
短歌に出会い直さなければ、心を抒べるということの意義に無知であった恐ろしきかな。
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