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耳の文学・目の文学

2016-06-07
「宮沢賢治は耳の文学
 三島由紀夫は目の文学」
(『身体の文学史』養老孟司氏著より)

SNS上で先輩たる大学教授が、冒頭に記した書物の記述において過去に「得心した」といった趣旨のことを書き込んでいた。その上で、和歌は「耳が優位」であろうとしながらも、書写に重点を置いた活動をした藤原定家はやはり「目の文学」ではないかとしていた。記録や校合(写本などの文字の違いを、他の本と照らし合わせて記録すること)に重点を置けば、自ずと「目」が優位になるのも必然であろう。先日の公開講座で『伊勢物語』を読めばやはり、朗読をして声にすることで初めて理解できる文体や語彙の魅力があることを、受講者の方々ともども再発見することができた。時代やテキストの性質にもよるが、古典は概ね「耳」が優位であると考えたほうが味わいが深いのは確実だと思われる。その上で現代という時代は「目」が過剰に優位になってしまい、多くの人々が「耳」を働かせる感覚を退化させてしまったように思えてならない。

例えば賢治の『風の又三郎』冒頭を読むにあたり、その擬音語を目だけで追っていてもなかなか理解しがたいものがあるだろう。以前に大学生の朗読発表会でこの部分を扱った学生がいて、リズムなしに字面だけを追ったような読み方をして、自らの朗読表現に納得がいかない様子であることが印象的であった。「どっどと どどうど どどうど どどう」は仮に「文字化」されているのであって、ほとんど「音」に他ならない。また賢治の詩を読んでも随所に「声」に対する意識が鮮明であることがわかる。明治・大正・昭和と生きた宮沢賢治と、昭和を生きた三島由紀夫では、やはり時代相の影響も少なからずあるはずだ。三島は「声」にならない「私」の苦悩を、その小説世界の中に展開したといってよいだろう。こうした文学の身体性に無頓着ではやはり、教材として作品を学ぶ「国語」においても、適切な学習方法を設定することはできないはずだ。「耳」で読むか、「目」で読むか、「音読」と「黙読」の意識化が不可欠のように思えてくる。

古典と現代をつなぐ明治という時代
「国語」の成立とともに考えねばならないこと
杓子定規な「授業」では、教材に適わない学習を強いることになる。
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