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歌集『キリンの子』セーラー服の歌人・鳥居さん

2016-06-06
「目を伏せて空へ伸び行くキリンの子
 月の光はかあさんのいろ」
「短歌に出会って人生に居場所を見いだせた」(歌集の帯より)

今話題の歌集『キリンの子』に、直筆でサインをいただいた。「僕は短歌を始めたばかりです。」と声を掛けると「私も短歌を始めたばかりです。Twitterで話し掛けてください。」と彼女は無邪気に笑った。セーラー服を着用しているのは、「教育・学校」に対する自身の思いからだという。目の前での母の自殺、小学校中退、施設での虐待、ホームレス生活等々、拾った新聞で字を覚え、そして短歌と出逢って人生の居場所を見いだした。その短歌には、自身が味わった生きる極限のこころの振幅が三十一文字に表現され、読む者の今の生きるを激しく揺さぶる。「みなさんは、文字を読めない人が日本にどのくらいいるか知っていますか?」と彼女は、そのセーラー服姿で会場の僕たち聴衆に問い掛けた。「実は日本にも字を読めない人がかなりいるんです。」という彼女の言葉そのものが、僕の甘く傲慢な今までの感覚を打ち砕いていく。そして資料として配られていた代表歌を読むと、さらに深く自分の無知を思い知らされた。

義務教育として「文字の読み書き」を子どもたちが当然習っているものという前提で、僕たち国語教育の研究者は、あれこれとそのあり方を語ることを生業としている。「国語」という学校制度内の「教科」として「学習」することに、「人生の居場所」を見つけられるだけの価値が見出せているのだろうか?小中学校でも「国語」の「学習」として短歌を創ることがある。児童・生徒はまずは見よう見まねで「五・七・五・七・七」と言葉を並べてみるが、表現は「学校」の枠内に存在する暗黙な規定の外に躍り出ることはまずない。短歌ならずとも「作文」や「感想文」も同じように、「生きる力」などと標榜した取り決め文言を空虚な妄想に終わらせるように、一人の子どもの「生きる」を本気で考えさせるものにはなり得ていない。「歌は心の叫び」とは和歌起源論などでよく語られる論調だが、換言すれば短歌(和歌)は「心の声」なのであろう。文字の学習も短歌も独力で行ってきたという鳥居さんの歌集を読むに、あくまで「文字」は単なる記録手段なのだと思えてくる。その骨骸としての「文字」以前に、短歌創作者の「声」がありその出処は「心」であることをあらためて考えさせられた。原点たる「やまとうたは、人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける。」(『古今集仮名序』)という宣言は、現代にも通底する歌論なのである。職業的な体裁や矜持に溺れていた僕自身の短歌表現に、大きな揺さぶりを掛けてくれたのが、鳥居さんの歌集であり、ご本人の生の言葉であった。

ライブで当人にお会いすることの大切さ
彼女の「感謝」と記した自筆が、僕自身の生きるを揺さぶる
ぜひご一読いただきたい歌集である。
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コメント:
ブログ拝読し、フェイスブックのグループ「鳥居(歌人)」でシェアさせていただきました。
どちらで鳥居さんにお会いになったのですか?
[2016/06/06 12:14] | 舟知敦 #cjKkyrr6 | [edit]












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