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「輝く眼」の内実

2016-06-04
「気があれば眼は口ほどに物をいひ」(雑俳・柳多留拾遺)
「情のこもった目つきは、口で話すのと同じ程度に気持ちを相手に伝える」(日本国語大辞典)
それでは「気」や「情」の内実は何だろう?

児童・生徒・学生に対して「眼を輝かせよ」というのは簡単であるが、果たしてどのような状態になると「輝く」とみなすことができるのかと考えた。「気持ちが入っている」とか「情熱がある」などと精神面を言うのもたやすいことだ。よくスポーツ中継を見ていると実況アナウンサーが、「気持ちがこもった」といった類のことを発言するが、僕にはこれが受け入れ難い。それは当事者であるスポーツ競技選手自身がインタビューなどで、同類の発言を多くすることに起因しているのかもしれない。アマならまだしもプロが「気持ち」で競技に勝てると本気で思っているとしたら、まったく思い違いも甚だしいと思うのである。僕が尊敬するアスリートであるイチローは、もちろん「気持ちで」とは絶対に言わない。自分の現実を比喩や皮肉も交えて、彼なりの語彙で、ある意味において哲学的に表現することができる。そこに見える自尊心と退路のない自己の追い込み方こそが、プロのプロたる所以であるといつも思い知らされる。それゆえにイチローは、年齢を重ねても輝き続けることができるのであろう。「気持ち」を主張する類の方々の大勢からは疎まれながらも、イチローの存在意義は尊い。

先日の研究学会で痛切に感じ入った脳科学上の「パブロフ化」について、諸々の事象に当て嵌めて考えている。学習者は、自らの触れる情報が開かれていることを自覚し、更なる価値ある情報はないかと探求して発見し、そこに新たなる価値を見出そうとする。その価値を自分が直面した問題解決に適用し活用しようとして、新たな試みに挑む。完成するか否かに怯えることなく、情報を行動化し、例え失敗があってもそこから次への扉を開けるためのヒントを収穫する。時に自らが柱としている情報が適合しないことだと判断すれば、情報そのものへの選択を疑問視する。まさに批評や論評を行動に反映する思考回路があり、何事をも鵜呑みにしない行動原理があるということである。脳科学上で「パブロフ化」しないためには、大脳の働きが必須である。それこそがヒトの人たる所以で、「こころ」が創られるということであると云う。「輝く眼」の内実を、僕たちはこのように捉えて、学習環境や方法を模索していかねばならないのだと考えたいものである。

現場に触れた経験から学びを再起動させる
今現在の自分はどんな情報にアクセスしているか
今年度になって2ヶ月、忙しさの中に自己の研究における情報を開かれたものにすべく。
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