ひとり一人の価値観は異なるのが前提

2016-05-21
食事など日常生活に
些細な言葉から深い思考まで
個人の価値観は異なるのが前提であると・・・

言語教育系のメルマガを読んでいると、巻頭に標題のような内容が記されていた。世間一般の人々の中では「価値観が一致する」などということは、あり得ないと云うこと。「価値観の異なる他者のことばに耳を傾ける」などということを特段に語る場合が多いが、それこそが普通のことだとする趣旨である。平田オリザ氏の『わかりあえないことから』(講談社新書)もやはり、価値観はひとり一人違うことを前提にするゆえ、コミュニケーションを深めるべきとする論旨であった。「われわれは共通の価値観を持てる市民である」というのが抑も幻想であり、異なるゆえに言語を介して他者と交流し、自らの価値観を醸成していくということにもなるだろう。わかっているつもりでありながら僕たちは、ついつい自分と違う価値観に対して批判することを止まない性癖があるようにも思う。

所属学部では2年生になると、1週間の「観察実習」が課される。実習10日前にして、この日は附属校での事前指導が行われた。開会の挨拶で校長先生が「先生と呼ばれることの準備の日」と話され、僕もそれを承けて冒頭の挨拶をした。子どもたちが「先生」と呼ぶことの重みを、十分に考えて行動するということ。ほぼ全員が受講した1年次の「国語」という講義で伝えた「思考力・判断力・表現力」を動員し、また「想像力」を活かして観察実習を通して学ぶということ。「アクティブ・ラーニング」という標語が巷間に溢れるが、それは脳内を活性化しなければ意味がないことなどを短時間で学生に伝えた。その後、学生たちが机椅子を校内で移動するとして「流れ作業」が行われていた。折しも下校時の児童がその様子を見て興味深そうに「ありんこの行列」と声高に言ったのが僕の耳に飛び込んできた。子どもとは元来、とても豊かな詩ごころを持っているものだと、大人として実利的にしか物事が見えない自分を恥じた。とりわけ校務の役職上の仕事を遂行する際には、こうした感性が退行しているのだと覚醒させられた思いである。作業していた学生たちも、こうした児童の反応に遭遇して、どのような「思考」になっているかが楽しみであった。

「教育そして社会の現場に立つ自覚を」
事前指導で板書されたことばに思う
それは「ひとり一人の価値観が異なる」世界に順応することでもある。
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