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添削指導は過去のもの

2016-05-10
「添削してください」と学生
「添削はしません、対話しましょう」と教員の返答
自立した書き手を育てるために

文章を書くと「添削」を願い出るのは、学校の常道でもあった。児童・生徒・学生らが自ら書いた文章の節々を、教師に「添加」や「削除」されるわけである。誤字脱字や不明確な表現ならまだしも、文章の趣旨まで教師の感覚で手が入れられてしまい、結局は本人が書いたというよりは「教師」の書いた文章に変更させられてしまう。どうやらこのことが「作文」という代物を子どもたちが嫌悪する大きな要因になっていることが、学生へのアンケートから知ることができた。もちろん通信教育などでは、「添削」で一定の教育効果も上がることも確かであろう。その場合も、提出者と添削者の間に、有意義な「対話」が成立しているか否かが大切であると思う。ある大学の学部が以前、入試科目として「地理歴史」に代えて「小論文」を課したことがある。だが書かれる答案がほとんど類似した文章で、結局は「個性」など見えることはないという理由を公にして(もしかすると個人的に当該大学の教員に聞いたのかもしれないが)、再び「地理歴史」に戻したということがあった。高校生が予備校などを通じて、いかに形式的に添削される文章教育を受けているかが知られる事例であろう。

僕の場合、ゼミの学生などへの対応は冒頭のように返答している。学生たちは今も「添削」を請うので、やはり前述したような高校までの教育の影響を受けているのであろう。教員採用試験願書に記す文章や卒論に至るまで、なるべく「本人が気づく」ことで文章を自ら修正していけるようにしたいという趣旨である。文章が独善的ではないか、内容に具体性はあるか、自らの個性をアピールする文章たり得ているか等々、「対話」をすることで本人の中に潜む力を引き出していく。教員採用試験の願書などは、当然ながら面接や集団討論といった2次試験の材料となる。その場で教員としての資質を十分に発揮すべく、自らのアピールポイントへ誘引できるような素材を散りばめておく必要もあろう。文書を書くというのは個人的な「箱」の中での作業であり、なかなか相手の立場になって記すのは簡単なようで難しい。人間は誰しも独善的な「箱」に籠って生きる宿命がある。それだけに指導教員は身近な他者として、学生たちと十分な対話をする必要がある。もしや小欄の文章も、ともすると独善的で読者諸氏には伝わらず分からないものになってしまっているかもしれない。ブログという表現の場は、なかなか対話的にはならない。時折、お読みいただいている方から諸々のご叱正をいただくと、本人としては「対話」となって諸々と反省させられる。

書き手として教師として自立させる
大学教育の大きな目標ではあるまいか
もちろんそこから「自分の頭で考える」姿勢が身につくことは自明であろう。
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