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文士たちの郊外「田端」

2016-05-04
小説や随筆の舞台
僕の育った街ゆえの想像
文士たちはそれを「郊外」と呼んでいたようだが・・・

興味があって明治時代から大正・昭和にかけての文士たちの足跡や、「国語」という学制における教科の制定についての資料を読んでいる。現代における「国語」教育の矛盾や問題点、また古典享受のあり方など、明治期に立ち返ってこそ解明できそうなことが多いからだ。もちろん明治期は江戸期に連なり、「読書」や「学問」のあり方はそのあたりに淵源を見出すことができる。昨今注目されている「協働活動型」の学びは、江戸から明治期には必然の成り行きで、その中で「音読」という方法の占める位置も極めて大きい。このような趣旨の「問題提起」を、今月号『月刊国語教育研究』(日本国語教育学会)の巻頭に知人である筑波大学の先生が執筆されていた。

誌面では、正岡子規が妹とともに句を音読しながら語り合っていたことが紹介されている。句会や歌会などを中心にして、文士たちが集い句や歌を語り合うという「協働の場」が、彼らの文学への批評性や作品の質を高めていたことは想像に難くない。根岸の子規庵あたりは、僕の実家からもそう遠くない地域である。実家のある「田端」という街は、山手線内で断然知られていない、降りたことのない駅として、反動的に有名になったようでもある。だが上野・東京や池袋・新宿へはほぼ等距離で、京浜東北線との分岐でもあり、実に居住するのに便利な土地である。この街に芥川龍之介や萩原朔太郎など、著名な文士たちがこぞって居住していた。同じ地に集まるということは、前述した「協働活動」を実施しやすい環境が醸成される。もちろん最高学府たる、東京大学や東京芸術大学にもほど近い。文士たちの小説や随筆の一場面は、この街とその周辺を題材として創作・描写されていることも多い。僕は「あの辺りの光景」を具体的に思い浮かべながら、そうした紙面と語り合うことで、さながら文士たちと「協働活動」をしているような気になるのである。

小学生の頃からの興味が
今、何らかの線で繋がり始めている
文士たちはこの地域を「郊外」と記していたことに、一興を覚えながら。

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