正解ではなく意見を述べる授業を
2016-04-30
「身近なことに置き換える」「意見を押し付けない」
「相手の意見を否定しない」(授業での心得)
夏の参議院選から18歳以上が有権者となるのは、周知のことである。その流れの中で、高校生や大学生が政治に対する意見を述べる場面も多くなった印象である。昨夏以来の安保法案に対する議論に端を発し、自分たちの将来に関わる重要な問題として、若者たちが様々な場所で語り始めている。その弁舌たるや「論理的」で「説得力」があり、日本の若者も捨てたものではないという印象を強くする。「国語」の学習に関連して述べるならば、中学校の学びを通して「批評」できる力を育むことも大きな目標になっている。決して「日本人」の若者たちが意見を言えないという訳ではあるまい。「言える環境を認めてこなかった」というのが社会や教育の責任として、大きいような気もするのである。
NHK放映のニュース番組内で、冒頭のような「授業方針」が報告されていた。ドイツの高校における「社会科」系(現代社会)の授業である。現在、社会で生じている問題、例えば「難民問題」について、「自分たちの学校なら難民の子とそうでない子とクラス分けをどうするか?」といった話題について議論する。実際に「混合」と「分離」とに対して一人一人がオープンに、黒板に印を貼り付けて投票をする。こうした方針が暗黙の中で為されないのが、日本の〈教室〉だと感じる場面に、僕も教員として何度も立ち会った経験がある。代表者や係を決めること一つでも、無記名投票であったり、顔を机に伏せて挙手をするなど、自己の意見を表明しない方策が生徒間でも施される。こうした環境の延長に嘗ての「KY」(空気を読めない)と批判する語彙の流行や、陰湿な「いじめ」が後を絶たない社会環境があるのではないかと思うのである。「国語」での「正解主義」は、まさに「空気を読む」ことの鍛錬以外の何物でもない。自分の意見とたとえ違っていたとしても(場の要求に適った)最適解を求められる社会。それはセンター試験という選択式入試問題を解くための技術にして、進路を賭した問題として多くの高校生に求められている。入試改革と同時進行に、僕たちは「国語」授業の改革を進めなければならないということだろう。
中学生の頃、意見を言える社会科の授業は楽しかった
その頃に、僕自身の意見を言う素地があるようにも思う
まずは眼前の教師の卵、大学生たちを意見が言えるように育てるのが僕の第一の仕事である。
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