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「こだまでしょうか いいえだれでも」挨拶という呼応

2016-04-21
金子みすゞの詩
CMで流れ続けて話題になった5年前
「こだます」再び・・・

5年前の東日本大震災の直後から、民放TV局は一斉に商品CMを自粛しAC公共広告機構のものだけが延々と流れ続けたことが記憶に刻まれている。中でも本日の題とした金子みすゞの詩が朗読されるものが執拗に流れ、その詩が心に沁み付いてしまった方々も多いのではないだろうか。僕の友人の医師も「すべて暗唱できる」と豪語していた記憶があるが、むしろあまりに執拗ゆえに嫌悪感が伴ってしまった方も多いのではないかと思われるが、如何であろうか。「『遊ぼう』っていうと『遊ぼう』っていう 『馬鹿』っていうと『馬鹿』っていう」と始まる単純な会話上の呼応を語った詩であり、もちろんその解釈も多様であろう。時節柄、「相手の立場に寄り添って物事を考える」といった模範解答が一般的な解釈であっただろうか。だがなかなか心から「相手の立場に立つ」ということは難しい。それゆえに同じ言葉を繰り返し呼応することで身体的にも寄り沿う行為を、矢崎節夫氏は「こだます」という語彙で切り取り、みすゞの詩の鑑賞の鍵と評している。

挨拶をなぜするのだろう?という人間の根源的なことを考えてみると、それは同じ言葉を相手に返すという単純な行為である。だが、もし挨拶をした際に相手に無視されたとしたら、その後の関係性が歪められていく。出逢いも別れも人が人と繋がる際には、「こだます」のが基本中の基本であろう。などということを、教育実習の事前指導の場で再考した。本学では大学2年生から附属校での観察実習があり、この日は附属小学校の先生にいらしていただき学生たちに事前の心構えなどを講義いただいた。その折に前述した金子みすゞの詩を引用されて、学生たちに訴える場面があった。「”観察”実習とはいえ子供たちが皆さんに問い掛ける場面も多い」といった趣旨のことを述べて、その際の人としての反応について意識を喚起したわけであろう。仮に同じ言葉を返すだけでもよい、子どもたちは「反応」してくれることを心から期待しているはずである。僕自身も長きにわたり学校現場で教員をしてきたが、児童生徒に限らず教員同士に対しても気分良く挨拶を交わすことを基本姿勢としてきた。なかには期待する「こだま」が返っては来ない経験もあったが、いまあらためて言葉の呼応の大切さを痛感している。それゆえに大学内で顔見知りでない先生や職員の方々にも、自分から積極的に挨拶を交わすようにしている。

赴任して嬉しかったのは
見知らぬ学生が廊下で挨拶をすること
教育学部の基本はまずここからではないだろうか、と実習担当として考えた。
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