思い込みを排さねば
2016-04-19
「もう来ないだろう」果たして誰がわかるのだろうか?
あらためて思い込みを排する重要性を考える・・・
一連の熊本県大分県に跨る活断層型群発地震が続いている。僕自身も「もう落ち着いたであろう」などと考えて自宅にいると、午後8時42分に緊急自身速報が鳴り響いた。居住地は震度3程度であったが、震源周辺の地域では震度5強などの強い揺れに見舞われている。その流れでNHKの報道を暫く観ていると、先週14日夜の震度7から一夜明けて「大きい地震はもう来ないだろう」と判断して、翌日には自宅に戻った方々が大勢いたと伝えていた。熊本市内の大病院の受け入れ体制においても、「災害時緊急対応」を一旦は採ったが、翌15日の朝の患者来院の状況を見て解除したとも報道されていた。こうした状況について、何も批判を述べるつもりは毛頭ない。むしろ、その「判断」への考え方そのものが、自分自身にも当て嵌まるのではないかという危機感を覚えたのでここに記すのである。
特にTV映像を観ているということは、当事者意識からかけ離れる心性に至るのではないだろうか。その上で「自分だけは大丈夫」と、誰もが思いたくなるのも人情でもあろう。過去の大地震の記憶からすると「震度7」が起きたら同等の揺れは二度と来ないと思い込むのも、むしろ一般的な判断だと思われる。だがまさにその人間の「思い込み」を超えた域で、自然は活動しているのだろう。もはや「想定外」という語彙は使用され難くなっているようだが、所詮人間の考えることなど「猿知恵」に過ぎないのだということか。そういえば尊敬する恩師である唐詩を専門とする先生が、僕が大学院生時代の演習でその「猿知恵」ということについて語っていたのを思い出す。人間の叡智など「猿知恵」だと認めた上だからこそ、「言語芸術」たる唐詩を原論的に考究するのだといった趣旨のことを、重陽の宴席で語っていらっしゃった。近代科学はあらゆることに対して人間は「わかった」と思わせ、思い込ませているのではないだろうか。だが実はまだまだ人間など何にも「わかっていない」のかもしれない。思い込みで開発し大自然に逆らう如き機器は、自然による戒めを受けることになる。それを「想定外」と呼ぶのは、まさに「猿知恵」の言い訳に過ぎないだろう。
文学では思い込みを排することが重要
ましてや敬虔たる大自然に対してなら尚更だ
大地が動けば地震と驚くが、動かぬ大地になぜ驚かぬ。
被災者の方々に思いを寄せ
自分に何ができるかを考えつつ
人としてこう考えた。
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