短歌講評と若山牧水
2016-04-18
要点・主眼を押さえる冗長に迂遠しない表現とは
短歌の講評と牧水に思いを巡らして
日曜早朝放映のNHK短歌(Eテレ)に今年度は、心の花宮崎短歌会でお世話になっている伊藤一彦先生が出演されている。今回のテーマは「桜」であったが、いつもの短歌会と変わらぬ名調子で選歌された秀作に解釈と鑑賞を施し講評をされていく。テレビ番組であると、とりわけ時間の制約が大きいであろうから、的確にしかも短く歌を講評する口頭表現そのものが、大変勉強にもなる。僕たち研究者はともすると歌を考究するあまり、理屈ばって冗長なコメントばかり考えてしまいがちであることを反省させられる。式典・宴会・朝礼の話はもとより、乾杯の音頭などでは特に人の心に伝わらない上に冗長な話は禁物だと、最近強く思うことがある。尤も短歌・和歌そのものが最短の形式の中で、人の心に訴える最たる表現であることを考えると、講評の仕方にもそうしたよき趣向が表れるのも必然ではないかと思う。どこがその短歌の主眼であるか、そしてまたどこが惹かれる表現なのか、それを明晰に迂遠せず表現する術を学ぶのである。
同番組内では、宮崎が生んだ歌人・若山牧水の歌にも毎回触れていくと云う。僕自身もこの地に赴任して以来、大学の先輩でもある牧水との少なからぬ縁を感じることが多い。ここ最近は岩波文庫版「若山牧水歌集」(伊藤一彦先生編)を、常に鞄の中に携行している。昨年9月には、沼津で墓参し牧水記念館を訪ねている。僕もこの地に住んで、自然と酒をこよなく愛した牧水の短歌を味わうと、様々な点で共感できる点が多い。更には、この日の番組内で伊藤先生が指摘していたことだが、牧水は「意味」のみならず「韻律」を大切にしたと云う。近代歌人は「意味」ばかりを重視してきた傾向がある中で、「韻律」を重視する傾向は古典和歌にも通じる。同時にそれは明治以降の「近代読者」の成立とも、大きな関わりがあるのではないかと考えている。「朗詠」や「音読」の観点から牧水の歌を評してみることに、深い興味を覚えるのである。
講義や発表でも同じ
コメント力を磨くためにも
「やまとうた」の長き歩みから牧水へと連なる線を模索する。
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