わだかまりを避けること勿れ
2016-04-11
「寓話は消化し切れないわだかまりを読者に植え付けるからこそ、時代を超えて残るのだ。」
(朝日新聞9日付 井伏鱒二「山椒魚」の朗読音声に対する島田雅彦氏の指摘より)
「わだかまり」を日本国語大辞典で引くと、「(3)心の中にこだわりとなっている感情。相手に対する何らかの不信、不満のある心情。すっきりしないこと。また、心中の晴れない思い。屈託。」とある。元来が「(1)かがまり曲がること。かがみ伏すこと。」の意味で、「(2)心がねじけていること。いつわりの気持ちや悪意を持っていること。」や「(4)くねり曲がること。滞っていること。」などの項目もある。まさに、心中に「屈託」という漢語で表現されるものが留まる状態というのが言い得ているようだ。井伏鱒二が作者として録音した「山椒魚」の朗読を、島田氏は「下手」とすると同時に「絶望と戯れる」と評し、「残酷」とする結末にある種の寓話性が見出せるというのである。前週の同記事で谷崎「春琴抄」をいとうせいこう氏が評したのに続き、「感情を抑えた」ような「棒読み」こそが内容を聞き手の感情のうちに素直に伝えてくるという点が大変興味深い。それはある種「古典芸能」の発声にも通じるといとう氏は云う。
だがしかし「国語」の授業では、その肝心な「わだかまり」を残さないために「教訓」を無理矢理こじつけて、小説や物語を「教師(教育)の独善」たる地上に着地させてしまう。その「教訓」に向けて試験なども行われるために、学習者は「評価」の脅しによってその読み方を強制される。持つべき「わだかまり」を強引に引き伸ばし、心の「屈託」を「直線」にされてしまう。「寓話」の持つ本来の価値が建前のもとに正当化され、むしろ学習者の心に残らないばかりか、不信感を持って嫌悪し隔絶するような事態が生じているような気がしてならない。ある意味で学習の動機付けは「反感」にあって、その「屈託」を自分の力で何とかしようとすることで学習意欲が湧くのではないか。恵まれない状況に置かれた者が、心身ともに「空腹」たる状態から脱するために努力を積み重ねるように、「屈託」を味わってこそが小説や物語を自己の内に活かすことができるはずである。考えてみれば、人生を歩むと「わだかまり」の連続である。直線的に何の障壁もなく歩めば、人としても磨かれることもなく、むしろ退屈な日々となるのかもしれない。教育にも社会にも、あまりにも建前の綺麗事が横行し過ぎてはいないだろうか。
「かがみ伏す」ところから飛び上がる
自ら跳ね返す力を養ってこその教育ではないか
「屈託」に疑問を投げかけたところから自ら学ぶ「国語」が始まる。
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