短歌創作者とジェンダー
2016-04-10
「あの女(ひと)」とあればその書き手は「男」か「女」か?
聊か曖昧なこの語彙使用について考える・・・
演歌の歌詞などでは、「女」と書いて「ひと」と読ませる場合をよく見かける。かの北島三郎の「函館の女」は、あまりにも有名であろう。もちろん日常語彙としても「いいひとがいる」と言えば、「彼女」のことを指すのは一般的である。この場合、女性に対して使用されれば「彼氏」を指すことにもなり、漢字表記にすれば「男(ひと)」ということになろう。翻って女性が「あの女(ひと)」と使用した場合はどうか?どうやら語感として聊か批判的な意味合いが込められるのではないか、ということを感じるに至った。「女(おんな)」という聊か不躾な呼称として漢字の印象があるのとともに、「ひと」と読むことで親しみを排した敵対や軽蔑の視点が込められる可能性があるということだ。呼称一つでその人物の相対的な関係性を表現するというのは、社会言語学の基本的な考え方であり、小説を読む際も人称代名詞の語彙選択で登場人物のあり方が造形されるという読み方は、文学理論の上でも常識である。
ある短歌に「あの女(ひと)」とあったことで、短歌会の鑑賞で様々な意見が提出された。その際の方向性を、概ねまとめたのが前述の内容である。議論としてまずは、この短歌創作者が「男」か「女」かということになった。創作者が「男」だとすると特別な関係にあった「女性」ということになり、創作者が「女」であれば敵対する関係の「女」ということである。現代短歌では特別な断りがなければ、「一人称語り」であるのは一般的である。詠歌の内容から即座に性別が判別するものと、そうでない歌がある。もちろん、性別を特定する必要もないという批評の方向性があってもよかろう。平安朝和歌によく見られるように「男」が「女」の立場で詠んだ歌だと考えることもできる。どうやらこの曖昧模糊な語彙使用は、一般的に誰しもが理解できるよう、創作者の思い込みを排し、詠み込んだ人物の特徴がより分かるようにしなければならないようである。また短歌創作において軽率な一般的に読めない範疇の振り仮名使用は、避けるべきではないかと考えさせられた。語彙の精査、ことばの真意を伝達すること等々、短歌創作から学ぶことは計り知れないという思いを抱き、月1回の充実した勉強機会に感謝する宵の口となった。
だが果たして「男・女」にこだわるべきか?
フェミニズム批評を超えて読むべき時代になっているのかもしれない
短歌はかなり忠実に世相を映すものだと実感する話題も多岐に及んでいたがゆえに。
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