仮想と現実のあいだ

2016-03-24
メールという通信手段
行間を慮り様々に仮想する
現実のような現実との断層

最近はほとんど携帯での通話をしなくなった。するとしても極限られた場合、限られた人としか喋ることはない。多くがメールによって、その用件を済ますことができるからであろう。メールであれば、先方がどのような状態であっても(それでも深夜早朝は配慮すべきであろうが)送信しておくことができ、先方の都合のよい時に返信を貰うことができる。更にいえば、最近はそのメールも前述のような全時対応性を失って来てしまい、SNSによる連絡が学生間など若年層では一般的になりつつあるようだ。この現象は、概ね「文章」伝達から「お喋り(チャット)」伝達化してきたと捉えてよいだろう。メールの「文章」であっても、その行間を読み様々な「仮想」を受信者はすることになるが、文字化された「お喋り」であれば尚更、「仮想」の度合や幅が拡がるようにも思える。僕の場合は、「文学」「言葉」を専門に扱っているせいか、どうもこの「仮想」が限りなく拡大しがちであり、先方の感情に深く寄り添う傾向があることを自認した。(ほとんど「お喋り(チャット)」はしないので、その場合にどうなるかは定かではない。)

「文章」伝達から得た事務的な内容はともかく、「感性・情緒」の面が厄介で危ういのではないかと思うことがある。「仮想」が拡大すれば心身にも影響を及ぼし、行動が制約されてくる。「現実」に当人と会ってみれば、そこまで憂鬱に思い込まなくともよいものだと悟ることも多い。まさに「百聞は一見に如かず」は、感情の交換の上でもいえることのようだ。先述した「お喋り」伝達化においては、「仮想」と「現実」のあいだに耽溺することさえ生じるかもしれない。「現実」ではない「現実」に、心身を制約される危険性を孕んでいるように思えてならない。「お喋り」のメッセージのみならず、そこに巧みな「映像」が添えられていたりすれば、「感性・情緒」は揺さぶられて、あらぬ方向に行ってしまいかねない。再び欧州ベルギーにて、テロという悲劇が繰り返されてしまったが、犯行声明を出している組織集団の手法は、まさにこの「仮想」を巧みに操っているように見える。「仮想」空間での言葉が氾濫する世界であるからこそ、僕たちはあらためて、人として人と向き合う真の「現実」を大切にすることを再認識すべきであろう。

講義もWeb配信できる時代
では〈教室〉では何をするか?を深く考える機会もあった
人としての原初的な「現実」「今」を決して忘れてはならないのであろう。
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