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粋な仲間と奏でるは

2016-03-07
今日もまた
粋な仲間と奏でるは
整う調べ愛の歌なり

8年という歳月で、人は如何に変われて如何に同じでいられるだろうか?みなさん個々の8年間は、どのようなものであっただろう?僕自身が顧みると、誠に人生の中でも激動の時代であったと振り返ることができる。学位取得後に中高教員を辞職し、非常勤講師を経て大学専任教員となって東京から離れた。この変遷の中で、一つの変わらない友情があった。それは親愛なる音楽仲間たちとともに、演奏し歌うことである。やや枕が長くなったが、8年の時を経てLIVEのステージに立つことができた深い感慨に酔った。「遠距離バンド」たるや僕の九州への赴任はともかく、ボーカル&キーボードの主力メンバーの米国留学と永住。されど彼女の一時帰国の度に、仲間たちで日程を調整しリハーサルだけは繰り返してきた。ひととせにひとたびなれども、この仲間たちと曲を奏で無駄話をして飲んで騒ぐ時間が、何物にも代え難い楽しさに満ちていた。

表現をするとは何であろうか?「国語教育」の上でのそれを諸々と研究課題とし、また様々な表現者の方々とともに子どもたちの豊かな感性を育む活動もしている。何より自らが言い訳なき表現者であるべきだと思い、多様な表現に身を晒している。講義・講演・学会発表などのプレゼン・朗読・落語、それに最近は短歌を詠むこと。それぞれの表現が相乗効果で「人に伝える」ことを錬磨する。共通点を洗い出して述べるならば、身構えた硬直した身体で表面的な意識を持って表現しているうちは、真に他者には届かないのである。文面を「読んでいる」うちは表現にあらず、諸々の伝えたい要素が集約的に無意識下で表現できる境地に至れば、自ずと「伝わる」ものになる。まさに演奏やボーカルとして曲を歌うことは、その最たるものであると今回改めて実感した。更には、表現中に脳裏で顔を覗かせる邪念こそが大敵でもある。今回も正直なところ曲を歌いながら、次にMCで話すことが脳裏をかすめた。それが悔やむに悔やみきれない失点となる。されどステージでは決して独りではない。一曲を創るために仲間たちが個々の持ち場で、渾身の演奏をしている。何とも言葉では言い表せないほどの親和性のような感覚が、自らを鼓舞し聴衆へと届ける表現となる。これは文学作品を「群読」することで、仲間たちや作品への愛着が深くなるのと何処か共通している。ステージで光を浴びること、そして空想次元ではなく人が生身で其処にいるということ。LIVEという言葉の意味そのものを問い返すように、音楽表現が人と人とを繋ぐ。この仲間と出逢えたこと、そしてともに表現することの楽しさ。生きるということは、何事にも積極果敢に挑んでみることでしか、見えない楽園があるような気がする。

また癖になってしまった
ステージでの緊張と興奮
そしてもちろんこの仲間たちとのかけがえのない時間。
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