「漢字」か「かな」かの受け取り方
2016-03-06
蕎麦屋で「大もり」と注文「何の大盛りですか?」
バイトらしき女子の返答
母校で研究会があり昼食をと思って蕎麦屋に入ると、冒頭に記したような事があった。すかさず馴染みの旦那さんが「もりそばの大盛り」とフォローした。そのことで彼の女子は「大盛り」ではなく「大もり」という語彙と表記を学習したであろうか。どうも教師というのは、日常の些細な場所でも、「教えたくなる」性癖があるようだ。もしや小欄の文章を書くことそのものも、「人に教える上から目線」になってやいないかと、時折心配になることがある。研究会の懇親会で何人かの方々のブログを読んでらっしゃるという先生から、「以前は教師然としていた」と評していただき、「だが今は・・・」という評語にありがたみを覚えた。読者を想定することは自己の「書くこと」「話すこと」といった表現力を、意識的に高める良い手段であるということもあらためて実感した。小欄なども「何のために」は、執筆者の意図が絶対であるわけではなく、享受者の捉え方によって様々な「意味」が生じるということだ。学生などにも、ぜひこのことは伝えたいと思う。
「大もり」か「大盛り」かはこうして打ち込むと変換候補に羅列されるが、「漢字」「かな」の問題は大変重要であると、この日の研究会でも再認識した。古典写本の書写段階で行や表記のみならず変体仮名の「字母」までを注記するという態度。元にする「親本」を「骨肉化」するという書写のあり方に、日本語を考える上で大変重要な視点がある。現代では変換候補からも実に安易に語彙選択をしている日常が散見されるが、自戒を込めて「漢字」「かな」をどう意識的に使用するかには、こだわりを持つべきだろう。僕も「教師然」としていた頃、高校生に多くの漢語を知ってもらいたいがために、意図して「書くこと」も「話すこと」にも、漢語を多用した時期がある。特に授業など「話すこと」の場での「漢語」は伝わりづらいのだが、そこに享受者の「考える」要素が生じることを信じて疑わなかった。これもまた読み手・聞き手に対する意識には違いないが、まさに「教師然」を形作る要素であったのではないかと今にして思う。
和歌を読む 短歌を詠む
そこに介在する「漢字」「かな」
文学に向き合う上で今一度深く考えたい視点である。
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