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現場教壇に立つ君たちへ

2016-03-02

教師冥利に尽きる
それを実感できる人生へ
教員養成に携わる身として・・・

3月1日、かねてから予定されていたゼミの追出コンパの日であった。本学の制度では3年生から2年間をゼミに所属し、担当教員の指導を受けることになる。その間には、3年9月の附属校教育実習、教員採用試験の受験勉強始動、卒業論文題目提出、4年6月の公立校実習、採用試験1次2次、そして卒論中間発表(4年9月)から書き上げて提出までと、比較的間断なくゼミで指導すべきことがある。僕のゼミの場合、教員になるためには多様な体験も必要という自らの信条から、その隙間に、公開講座補助や芸術家派遣事業などの補助に学生を「連れ回す」ことにしている。この「連れ回す」という表現は、この日の「追コン」でのある卒業生の言葉であるが、その「体験」で自らの視野が広がったという意味であり、後輩たちにも積極的に勧めるという趣旨であった。役者・音楽家・落語家・執筆家などの異業種の方々や一般の方々の生の感性に触れて、学生たちは自己開拓する。そんな思いも伝わって来て、僕にとっても幸福な時間となった。

幸い今年の卒業生4名全員が、4月から現場教壇に立つ。君たちは、あと1ヶ月もすれば小学生や中高生にとって紛れもなく「先生」であるのだ。教育実習の折に、子どもたちや当該学校の先生方から呼ばれる”とって付けた”ような「先生」という呼称。自分の未熟さ無力さにほろ苦い思いを持ちながら、慣習的に徹底される「先生」という呼び方。その隔絶感の淵に戸惑いながらも、甘えられるのが「実習生」たる存在であった。もちろん本人たちの意識としては、「甘えた」とは思っていないであろうし、思うべきではない。だがしかし、この4月からは寸分もの「甘え」も許されない正真正銘の「先生」となるのだ。言い換えれば担当する子どもたちの「生き方」に、真っ向から関わるということ。まさに「先に生きた」体験こそが、自分自身の資源となる。教育とは自らの「生き方」をそこに投ずることともいえるであろう。だとすれば、もちろん最初から「上手く」できることばかりではない。数知れぬ「失敗」や「後悔」をこれから身につまされて「体験」することになるだろう。僕自身もまさにそうであった。学部新卒直後の若気の至りで、生徒と対立したことや、今思えばヒドい授業を物知り顔で行っていたと恥ずかしい思いである。だが、児童・生徒たち1人1人の人生に心で向き合うこと、その気持ちさえ忘れなければ、必ず道は拓けるものだ。恐れることも意図して威勢を張ることもない。自らのこれまでの人生におけるすべての「体験」をもとに、眼の前の「1人」に向き合えばいい。いつしかその「1人」の言葉に、「教師冥利」を感じられる日が必ず来るはずである。「人」は「人」によってしか育てられないのである。

向き合う「1人」が卒業する時
そこで初めて自己の関わり方が見えてくる
ゆえにこのような日の君たちの言葉で、僕自身もまた「人生」に心で向き合ったと実感する。
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