小学校古典学習の格差
2016-02-25
暗誦し音読も十分にできるせいぜい視写をしたぐらい
小学校古典学習について考える
月1回の附属校との共同研究。この日は、小中連携乗り入れ授業ということで、附属中学校の教員が小学校6年生の教室で授業を担当し、後に研究協議を行った。題材は『徒然草』の章段から「高名の木登り」を扱い、昔話・物語から読み取れる教訓性について考えて内容理解を深め、それを音読で如何に工夫して表現するかという目標の授業となった。昔話「ウサギとカメ」を導入で使用し教訓性へと目を向け、「高名の木登り」の段に関しては現代語訳から入るようにして、原文と対照して読み方の確認などがされた後に、グループ内で音読の工夫を話し合い、最後に代表者が発表するという進行であった。概ね順調に進行したように見えた授業であったが、学習者個々を観察すると、問題も浮上してきたことがわかった。
比較的学習環境もよく、学力も高い児童が揃う附属校であるが、それでも古典学習には「格差」が見え隠れした。原文を音読すれば、問題なく読めるような学習者と歴史的仮名遣いに戸惑う学習者がいる。古典はせいぜい「視写」をした程度だという現実もあったと担当者である中学校教員から報告があったが、たぶん小学校の担任教員によっても学習方法や程度に差が生じていることが窺われた。現行学習指導要領から「伝統的な言語文化」に関する事項が定められ、小学校でも古典教材が教科書に掲載されるようになったが、広域の小学校まで拡げてみれば「格差」は更に大きいことが予想される。中学校教員は、「このぐらいは学んでくるだろう」という安易な期待を抱くべきにあらず。あらためて中学校でも、初歩から親しみ深く古典に接する態度を育てるべきであろう。むしろ嫌々やらされてしまった「視写」や「音読」で嫌悪感を抱いていないか今一度、小学校古典学習全般を見直すべきかもしれない。「音読」一つとってみれば、それは高校にも大学にも関わる学習者の未成熟の問題があると言わざるを得ないのではないだろうか。
早期教育の弊害や如何に
親しむためが嫌悪を抱いてしまっては
「教訓」だけが古典の粋にあらず・・・
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