「離見の見」の境地こそ
2016-02-15
我を省みる一歩離れて我を見つめる
さらに大局的に俯瞰するということ
ある新聞の読書欄記事に、家電通販で有名になった「タカタ社長」の記事があった。どんな書籍を取り上げているかと思いきや、『世阿弥の世界』(増田正造2015 集英社新書)であった。この書籍を通販サイトで調べてみると、現在ベストセラーとなっていて入手に2週間程度は要するようだった。以前から「タカタ社長」の人の心に訴える声に関しては僕自身も関心があり、よく大学講義などで参考例として雑談のネタにしていた。彼のやや甲高い声と肝心な点を述べる際の沈み込むような身体作用には、何か秘密があるのではないかと感じていた次第である。どうやら彼は、今まで自分が自然にやってきた術が、「世阿弥」の能楽論と共通することを当該の書物で知り共感したというのが、この記事の内容であった。人の心を惹きつけるのは、やはり芸能論としての伝統が存在するものだと、古典研究の意義を現代社会に活かした一例として傾聴に値するものだと思う。
「世阿弥」の「序破急」の論。「タカタ社長」は「つかみは10秒」と云い、その後どこで値段を下げ、最後に念を押すかといった展開において、寸分も狂わない間と呼吸が大切であると云う。確かにプレゼンや講義においても、こうした聴衆の心を掴む展開が望まれるであろう。いや、掴みのあるプレゼンは、自ずとこうした構成になるといえるかもしれない。そして自己の表現を「省みる」のみならず、「離れた位置から見直す」ことや「大きな視野から俯瞰する」といったことができないと表現として熟練することはない。芸術表現は「自惚れ」を伴っていては、決して多くの人には受け入れられる境地には達しないということである。奇しくも夜の番組で司馬遼太郎が特集され「日本人とは何か」といったテーマが著書『この国のかたち』に基づき構成されていた。恩義ある人のために「名こそ惜しけれ」といった精神から「公」を大切にする精神性が生じ、「武士」の存在こそが「この国」を牽引もし没落もさせてきたのだという趣旨と、僕は受け取った。司馬が「熱中・熱狂を嫌った」というあたりに、「離見の見」の境地に通じるものがあるのでないかと思うのである。
誠の温故知新
この国の美しさとは何か?
自惚れず俯瞰してこそわかる境地を大切に。
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